世界文化遺産・荒船風穴
先日、遠方から荒船風穴に来られた方がフェイスブックに書かれていた内容について、余分ごとかな・・・と思ったのですが、前々から気になっていたことを書き込ませていただいたことがあります。
赤い矢印の部分です。
以前、つぎのブログ
秋蚕の碑-きちんと歴史を伝えているだろうか・・・ リピーターは1割未満
世界文化遺産・旧富岡製糸場
で紹介しましたが、旧富岡製糸場をはじめとする世界文化遺産について、歴史をきちんと伝えていないのではないかと、前々から気になっています。
その根源のひとつかな・・・といえるのが、群馬県のホームページに紹介されている短文(↓)ではないかと思います。
いま、あちこちで配布されている「上野三碑と富岡製糸場周辺ガイドマップ・さんぴさんぽ・せいしじょうさんぽ」に掲載している荒船風穴の解説文は、群馬県のホームページに紹介されている短文(↓)とほぼ同じです。
〇数字は説明用として、私が付したものです。
まず、①の明治38年という時期をお話しいたします。
「群馬の養蚕(みやま文庫)」によれば、
明治35年 榛名風穴
明治38年 荒船風穴・星尾風穴
明治40年 東谷風穴・利根風穴
のあと、ほかの風穴が群馬県内にできたたのことです。
明治38年ころは、いわば〝風穴ブーム〟といった時期であったといえます。
つぎに、①の当時という表現ですが、これが明治38年から大正3年をさすのであれば、③の年1回だった養蚕を複数回可能にしたという文章そのものもおかしいのですが、当時という時期ですらおかしいということになります。
そもそも荒船風穴は、冷風を活かした蚕種の貯蔵施設(②の部分)であり、複数回/年の蚕の飼育については、
秋蚕の碑-きちんと歴史を伝えているだろうか・・・ リピーターは1割未満
世界文化遺産・旧富岡製糸場
で紹介したとおり、たいへんな苦労をされた方があったおかげで、明治20年代には群馬県はもちろんのこと、広く全国で複数回/年の蚕の飼育が行われるようになっていました。
繭の生産量は、明治15・16年ごろに増え、そのあと減少に転じるのですが、明治23年からは全体的に繭の生産量が増えます。
明治20年代に繭の生産量が増えるのは、春蚕だけでなく夏秋蚕が普及し、たくさん繭が生産できるようになったからです。
群馬県をはじめ、全国に風穴ができたのは、こうした複数回飼育の普及とともに、生産した繭の取引価格が養蚕農家にとって、とても儲かることであり、桑や蚕種の改良とあいまって、掃き立て時期が計算できる風穴で貯蔵された蚕種の需要が高まった時期、それが①の明治38年ころであったからでした。
要するに、荒船風穴ができる前から蚕の複数回/年の飼育は、全国に普及していたということなのです。
荒船風穴は、その当時とすれば貯蔵技術を工夫して、貯蔵などのシステムがすぐれていたという施設になると思いますが、蚕の複数回/年の飼育を可能にしたわけではありません。
そして、④の朝鮮半島にも及んでいたという部分です。
群馬県のホームページをご覧になった方は、朝鮮の方が荒船風穴に蚕種の貯蔵を委託したと思われるかもしれませんが、残された記録によれば、北村近太郎さんという方が委託して、北村寅吉さんという方が蚕種を受け取っているというもので、この記録から考えられる、あるいは想像できることは、日本から朝鮮に行った方が日本で暮らしている父(あるいは兄や弟ということもあるかなと・・・。もちろん肉親でなく他人ということもあるかもしれませんが、私は父親あてであったのではないかと想像しています)へお願いします、ということで、荒船風穴に蚕種の貯蔵を委託したのであろうと考えています。
荒船風穴の場合、朝鮮からというのは、この事例のみだと聞いています。
これをもってして、④の朝鮮半島にも及んでいたというのは、荒船風穴紹介の解説文として、適切な表現になっているのだろうか・・・と、これも気になっています。
もっと多くの方々、それも朝鮮の方々から委託されていたというのであればわかるのだけれど・・・と、前々から気になっています。
荒船風穴を紹介した短文(↑)は、つぎのホームページの赤い矢印のところ(↓)から入って見ることができます。
私の考えが間違っているかもしれませんが、私は歴史をきちんと把握したうえで、すばらしさをしっかりアピールする、そんな世界文化遺産であってほしいと思っています。
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