2018年6月30日土曜日

せめて気分だけでも涼しくなっていただけたら・・・

雪景色と電車

今年の梅雨明け(関東地区の場合)は、これが確定すれば観測史上初の最短となる6月中でのこととか。
これも異常気象ということかもしれませんが、このところ夏本番といいますか、いや夏本番なんて生易しいものではなく、極夏・猛暑+猛暑=猛々暑とでも表現したくなる暑さになっています。
2018.1.23
炎熱地獄のような暑さのなか、このブログを見ていただいている方々が、すこしでも気分的に涼しくなっていただければと思い、今年の1月と2月の雪が降ったときに撮った画像をお届けいたします。
2018.1.23
数年前の大雪のときは、たいへん驚きましたが、例年は2~3回ほど雪が降るくらいで、それも降雪量はたいしたことなく、積もってもわずか数センチほど ですが、雪が降りますとご覧のような風景になります。
2018.2.2
 いま、卓上扇風機の風を受けながら、このブログをアップしています。
2018.1.24
涼しいような、生暖かいような・・・不思議な温度の風ですが、それでもこの暑さでは、たいへんありがたい風です。
2018.2.2
ご覧いただく方々に涼しくなっていただこうと思って、雪景色と電車の画像をお届けしようとしたのですが、あまりの暑さに思わず愚痴が出てしまい、涼しさ、冷涼さといったものが十分にお届けできなかったかもしれません。
私のくだらないコメントを無視していただいて、雪景色と電車だけを見ていただければ、とても涼しい気分になっていただけるのではないかと・・・

それにしても暑い、暑い、暑すぎる!!

2018年6月29日金曜日

古代ハスの里:石坪の池(富岡市神成)

美しく咲いています

けさ早く古代ハスの里に行ってきました。
古代ハスの里:石坪の池では、次から次へとハスの花が咲き、まさに美しい花園といったところです。
朝陽がさしてくるころには、水面に映る青空や白い雲、それにハスの花が組み合わさって、得もいわれぬ美しい光景を見ることもできます。
よく晴れた日の早朝は、きれいな池が見られる絶好の機会かもしれません。
ハスの花を見て歩く木道わきには、地元の皆さんが、
 お出かけいただいた方々に、ゆっくりハスの花を見ていただくように、
との願いを込めて、お花見スペースをつくりました。
これをつくっていただきましたので、従来よりはゆっくりハスの花を見ていられると思います。
でも、混雑時の三脚使用をはじめ、あまり長い時間、同じ場所で撮影している・・・といったことで、ほかの方々へご迷惑をおかけしないように気をつけたいものだと思います。
また、明日と明後日の土日には、多くの方々がお出かけになると思いますが、道路が狭いところがありますので、十二分にお気をつけて、

古代ハスの里:石坪の池

にお出かけになってください。

2018年6月28日木曜日

女街道(下仁田道)

自転車で走ってみました

追分街道とも下仁田道とも、また女街道とか姫街道ともいわれている中山道の脇往還(以下、下仁田道)であった道を自転車で走ってきました。
出発地は上の案内図に付した〇印の場所で、軽井沢のレークニュータウンの近くです。
群馬県の下仁田町側から和美峠を越えますが、和美峠から借宿にいたる道が長野県側の下仁田道(上の案内図の□印内では、女街道となっています)です。
中山道に下仁田道が合流(分岐)する地点、借宿(上の案内図の△で枠外)をめざして、いざ出発です。
私の場合、荷物を担いでいるわけでなく、また荷物を運ぶ馬を連れているわけでもなく、カメラを持っている程度で、ましてや涼しい現代の道路を快適に走っているわけで、実に江戸時代の皆さんに申し訳ない気持ちになったものでした。
長野県のすばらしさは、歴史と文化を大事にされていることです。
女街道の案内もたくさん設置していますし、石造物などもしっかり保存していて、ほんとうにすばらしいことだと思っています。
これ(↑)は借宿で保存されている道路元標です。
あちこちにあった道路元標ですが、とくに戦後の道路拡幅工事の際などに、たくさんの道路元標も姿を消したといわれています。
このような時代の流れのなかにあって、しっかり残して、それを後世にも伝えようとしていることは、たいへん尊いことだと私は思います。
下の画像は、下仁田道が中山道に合流(分岐)している地点です。
画像の左が下仁田道になり、正面の奥、そして手前に伸びている道が中山道になります。
以前、

「中山道&下仁田道の旅」がいいかも・・・

で紹介しましたが、中山道の本庄宿から分かれた下仁田道は、藤岡・吉井・富岡・下仁田などを経て、借宿までつながっていました。
現代の人間でもとくに軟弱な私だからかもしれませんが、軽井沢地内の下仁田道は、比較的平坦な部分が多いとはいえ、自転車でも厳しいアップダウンがありました。
やはり自動車は楽ちんだなと思うものの、自転車でなければ見られない風景が見られたり、気になる場所があれば、すぐにストップして、立ち寄れる便利さを考えるとき、自転車はたいへんすばらしい移動手段だということも実感しました。
歩くことが多く、歩きなれていたとはいえ、江戸時代の人々にとっての移動、旅は、とてもつらいものであっただろうな・・・と、そんなことを思った一日になりました。

こちら(↓)もご覧いただければ幸いです。

借宿  中山道「間(あい)の宿(しゅく)」

2018年6月26日火曜日

何やかやとねだられて二百両

碓氷関所の門扉を残した後閑丹造

いま、江戸時代の道路や人々の移動(旅)などを調べているのですが、上毛新聞の「三山春秋」に興味深い記事が掲載(↓)されていました。
 この記事で紹介している
  「近世関所の基礎的研究(五十嵐富夫著)」
を地元の図書館を通じて、群馬県立図書館から借り、読んでみたところ、たいへんなお金をかけて、碓氷関所の門扉を残した人物がいたことを知りました。
その人物とは、碓氷関所の同心であった後閑丹造で、門扉一枚を残すために二百両もの大金をつかったというのです。
 久しぶりに分厚い本を読みました。
 この本によれば、門扉保存の経緯は、つぎのとおりです。

関所建物を焼却する際、その補佐役を命じられた後閑丹造は、勤めていた関所の建造物のなかで、どれか一つでも残せたらとの思いで、上役に袖の下二十両を渡して願い出たところ、
  扉一枚くらいは内緒で保存するのもよかろう
との内諾を得ました。
これを知ったほかの役人が、
  それは承知できない
と言い出したので、これらの役人には全部で五十両を渡し、
  やっと決着
したのでしたが・・・
やっとの思いで、門扉をひそかに後閑丹造が運び出したあと、このことを知っている同役や下役らに、
  何やかやと酒代をねだられて、
けっきょく後閑丹造は、門扉一枚に二百両もの大金をつかうはめになったというのです。

たいへんな思いをして後閑丹造が親せきなどの協力を得て残した門扉は、いまは復元された碓氷関所で見ることができます。
 また、焼却しているときに出して、焼却をまぬがれたという門柱も復元されています。
上毛新聞の「三山春秋(2018.6.3)」では、「近世関所の基礎的研究(五十嵐富夫著)」において、門柱、門扉、屋根材などを隠していたとなっていますが、この本の89頁から92頁で記述されているのは、後閑丹造が残した大扉(門扉)のみです。
また、碓氷関所の資料館を見学した際、残されていたのは門扉と門柱であったとのことで、屋根材が残されていたのかどうか・・・、この点と門柱を火のなかから救い出したのは誰であったかは、これからの私の調査課題です。

なんとか後世に関所の一部を残そうとした後閑丹造と親せきらは、江戸から明治に切り替わる激動期にあって、たいへん勇気がある行動をしたといえるでしょう。

後閑
丹造に袖の下や酒代を要求した上役などは、当時の記録文書に名前が記載されていないからいいものの、もし名前が記載されていれば、子孫は恥ずかしい思いをすることになったかもしれませんね。←これは、まったくの余分ごとです。

2018年6月24日日曜日

俳句はジオパークを活性化する?

そもそもジオパークをより活性化するとは?

先日、下仁田ジオパークの会(以下、ジオの会)から会費納入の通知が届きました。
私は基本的に会費を徴収して、会を運営していく方針はよいことだと思っています。
いまの時代、行政からの補助金などだけでなく、会員も会費や労力などを提供して、また活動に協賛していただける法人や団体からも協賛金などを寄せていただき、しっかり活動することは、とても大切なことだと私は考えています。
この会費納入通知の前に送付された平成30年度の定期総会の議案中に、私には不可解、不思議な点があり、はたして会員の多くが納得したうえで、いろいろなことを総会で決めたことだろうかと疑問に感じています。
そのひとつが、会則の第3条の部分です。
今年度から日本ジオパーク下仁田応援団(以下、応援団)をジオの会に改称したわけですが、その会則の第3条では、
 下仁田ジオパークをより活性化することを目的とする
となっていて、応援団の活動目的と大きく異なったものになっています。
この第3条の部分は、応援団の会則では、
  世界ジオパークをめざす下仁田町を応援することを目的とする
となっていて、明確に活動の目的を決めていました。
改称とあわせて、目的を大きく変えたことについて、会員はしっかり理解しているのだろうか・・・と、私にはとても疑問に感じられます。
ジオの会の活動目的は、応援団の活動目的を引き継ぐものでなく、まったく新たな活動目的を掲げたものであり、もはや応援団とジオの会は、まったく別個の団体といってよく、応援団を解散したうえで、新たにジオの会を設立すべきであったのではないでしょうか。
そもそもジオの会の活動目的であるジオパークをより活性化するとは、どういう意味であり、どのようなことをめざすというのでしょうか。
ジオパーク下仁田は、世界ジオパークをめざさないということなのでしょうか。
残念ながら私の能力では、この活動目的の内容や方向性をイメージすることができません。
また、平成29年度収支決算書には、
  氷室俳句会年間購読料
として、12,000円を支出していたことが記載されています。
氷室俳句会とは、
  日本ジオパーク委員会委員長の尾池和夫氏が主宰
していて、昨年の再認定審査のとき、尾池氏は審査員として、渡辺真人氏とともに下仁田を訪れています。
昨年の再認定審査の総評において、尾池氏は
  中国の万峰林と交流を
ということも述べました。

「中国のジオパークと交流するんだって?!」 「たいしたものだね!」

私は、こんなことが下仁田町で可能だろうか(下仁田町の皆さんには、たいへん失礼なことは百も承知ですが、いまの財政規模、進む人口減少、職員の能力などを考えるとき、とても実現できる交流であると私には思えません。下仁田町の皆さんが「失礼なことを言うな!やってみせる!!」ということであれば、それはそれで結構なことですが・・・)と思いましたが、おそらく会場にいる多くの人々も驚いた万峰林との交流〝提案であったのではないでしょうか。
そして、ことしの2月には、吟行ということで、氷室俳句会の方々が下仁田を訪れました。

ジオパーク下仁田は 「すごいな、いいな」と思われるのでは?

ジオパーク下仁田だけでなく全国の日本ジオパークが、なんらかのかたち(団体が購読するか、団体の役員が個人名で購読するか・・・)で、氷室俳句会の機関誌を購読しているとすれば、尾池氏やジオパーク関係者に〝その気〟がなかったとしても、そこは〝おとなのつきあい〟ということで、なんらかの了解事項が両者にあったのかな・・・と疑念をもたれてもしかたないかもしれません。
こういったことは、審査する側と審査される側の距離について、いわゆる〝公私混同〟的なものではないかという感じがしますし、たいへん疑問に感じます。
氷室俳句会の方々の俳句がどのようなものか知りませんが、ジオの会の活動目的であるジオパークをより活性化することになるものだろうかと、いまのところ私は疑問に感じています。
ジオの会の平成30年度会計予算には、前年度の氷室俳句会の年間購読料と同額の12,000円が記載されています。
この12,000円が氷室俳句会の機関誌購読料かどうかわかりませんが、こうした支出がはたして、ジオパークをより活性化することになるのかどうか・・・私にはたいへん疑問な支出です。
ちなみに平成28年度の収支決算には、氷室俳句会の機関誌年間購読料というものはありません。
会費を徴収するからには、明確な活動目的と適切な事業の実施、その支出というところがしっかりかみ合っていること、つまり整合性が図られていることが必要だと思います。
また、応援団のとき、会員に対して、全国大会等に出かけた役員がしっかり大会の内容などを報告してきたでしょうか。
定期的(最低でも6回/年)に機関紙を発行し、会員や協賛していただける法人や団体に活動報告を行うことも必要だと思うのですが、今年度の事業計画にそのような事業がないのは、たいへん残念でなりません。

会費を納入しようか、どうしようか・・・と、いま私は思案中です。

2018年6月23日土曜日

見ごろになってきました

古代ハスの里・石坪の池:富岡市神成

けさ早くに古代ハスの里・石坪の池に行ってきました。
虫たちがいっぱい飛び回っていました。
 雲の間から陽の光が出てきましたので、その朝陽といっしょに撮影してみました。
今週末あたりからは、花がいっぱい咲くことでしょう。
雨降りのなか、傘をさしてのお花見もすてきだと思います。
見ごろになってきた古代ハスの里・石坪の池に出かけてみませんか。

2018年6月21日木曜日

火災発生!!のときには

とても驚いたことかと・・・

先日のブログ(↓)

戸谷半兵衞  地域のために尽くす

で、埼玉県上里町の大光寺にある見透燈籠を紹介しましたが、その大光寺の本堂などが明治42(1909)年に焼失したという説明板を読み、びっくりしてしまいました。
 赤丸を付した場所に、
  明治四十二年二月に高崎線の灰煙を被り全焼・・・
とあり、これを読んだとき、鉄道史に関する本などで、蒸気機関車の排煙、火の粉によって、住宅などが燃えたりとか、桑の葉に灰が降り、お蚕さまのえさにできなくなってしまったとか、鶏が卵を産まなくなってしまったとか・・・、いろいろな事件があったということは知っていたのですが、お寺の本堂までも!と驚いてしまいました。
当時の本堂の屋根がどのようなものであったかわかりませんが、燃えやすい茅葺きの屋根であったかもしれません。また、火災の発生が2月ですので、空気が乾燥していて、燃えやすい状況であったということも、大光寺にとっては不運であったのではないでしょうか。
いまは再建されて、すばらしい本堂や鐘楼などがあります。
 大光寺の境内から見える高崎線の列車です。
明治時代の〝鉄道事故〟のひとつ、お寺の本堂などが焼失したという事例を紹介しました。
いまの高崎線は電化されていて、列車から火の粉が飛び散るようなことはありませんが、100年ちょっと前の蒸気機関車は、沿線の人々にとって、便利な乗り物だけれど危険な交通機関、であったということかもしれませんね。
つぎは、現在のSLほか(SL碓氷・EL碓氷)の走行シーンです。





2018年6月20日水曜日

「万引き家族」

「家族はつらいよ-3-」

とても考えさせられた映画でした。
カンヌ国際映画祭において、最高賞パルムドールを受賞したということで、新聞や雑誌等で大きく取り上げられ、この映画のテーマ、内容などについては、多くの方々がご存知のことと思います。
ということで、私がピント外れのような説明をしても仕方ないと思いますので、たくさん印象に残ったなかで、ひとつだけ私の印象に残った場面を紹介します。
それは、リリーフランキーさんが演じる〝父親〟が
  お父ちゃんさ、おじさんに戻るよ
と、ひとつの布団に寝ている〝息子〟に背中を向けたまま、静かに話す場面です。
愛にあふれ、やさしく支えあって、必死に生きている〝家族〟に、やがて悲しい結末が訪れます。
そして、わたしのほんとうの家族はどこ?と、アパートの廊下から通りを見つめる少女のアップで、この映画は終わります。
この6月には、「家族はつらいよ-3-妻よ薔薇のように」を見ました。
こちらは、笑いながら家族の絆、嫁の働きへの正当な評価などの大切さを考えさせてくれる映画です。 
 この2作品を見て、家族のことを考えてみるのもいいかもしれません。
それぞれの暮らしがあり、そこにはそれぞれのよろこびや悲しみがあって、一生懸命に生きている姿があるということなのでしょう。
このふたつの映画とも、幸せって、いったいどういうものなのだろうか・・・と、そんなことを考えさせられる物語、それをしっかり描いた映画です。

2018年6月19日火曜日

揺れる日本列島

17日には群馬県で、18日には大阪で・・・

このところ、あちこちで地震が発生しています。
6/17(日)午後に起きた地震には、たいへん驚きました。
たまたま高崎にいて、そのときは自動車のなかで、ひと息いれていたところだったのですが、自動車がゆさゆさと揺れたのには、ほんとうにびっくりしてしまいました。
このところ千葉県などで地震が起きていますので、そちらが震源地かと思ったのですが、群馬県内が震源地であったとのことで、これにも驚いてしまいました。
そして、きのうの6/18(月)の朝、大阪で地震が発生しました。
 きのうの朝、大好きなテレビ番組のひとつ「こころ旅」を見ていたところ、番組の終了近くになって、緊急地震速報が流れたのにまたまたびっくり。
 NHKでは、朝ドラほかの放送を中止して、地震関係のニュースを放送しました。
この地震によって、 痛ましい死亡事故も起きました。
もともと日本列島の生い立ち、その宿命ともいうのでしょうか、日本は地震が多く、火山の噴火も多い国です。
ある地質研究者から、「日本列島に安全な場所はないんだよ。地震や噴火、これはどこでも起きるし、どこに住んでいても危ないんだよ」とお聞きしたことがあります。
でも、と私は思うのです。
これだけ科学技術が進んできて、いまだに地震の発生や火山の噴火が正確に予知できないというのは、科学者の怠慢なのか、必要な研究体制づくりを国がしていないからなのか、そのどちらかではないかと思わざるを得ません。
日本列島の宿命ともいうべき地震の発生、火山の噴火について、正確な予知をはじめとして、地震や噴火への抜本的な対策を国で講じ、国民が安心して暮らせるようにしてほしいと思うのですが・・・。