2014年6月29日日曜日

上信電鉄-高崎駅の乗り換え

上毛新聞の投書(2014.6.25)を
読ませていただいて

先日の上毛新聞投書欄に、つぎの投書が掲載されました。

現在の高崎駅は、JRと上信電鉄の駅がまったく分離(ピンク色のところに上信電鉄の改札口があり、赤い矢印の先から外に出て、JRの改札口に向かいます)していて、とても不便な状況になっています。
JRで高崎駅に到着し、上信電鉄に乗り換える場合、JRの改札を出て、西口の階段をおりて、上信電鉄の改札口に向かう(赤い矢印)ことになります。

こうなる前は、上信電鉄のホームからJRの乗り場に直行できたため、それぞれの乗り換え時間が短いときでも、乗り換えに間に合う便利さがあったのですが、いまはまったく違った改札口になってしまって、その便利さが失われてしまいました。
投書された方は、世界遺産関連での利用者増をふまえて、高崎駅でのJRと上信電鉄のアクセス改善を提案されていますが、
 JRと上信電鉄のアクセスが改善されれば、
  JRと上信電鉄の利用者
   -通勤、通学はもちろんのこと、買い物や通院などの日常的な利用-
  にとっても便利な駅となって、
   利用者が増える効果が期待できる
                                  と、私は考えます。

いろいろな制度などがあって、JRと上信電鉄の乗り換えが現在のかたちになってしまったと思うのですが、
 JRと上信電鉄の方々には、
  いまのかたちが利用者が利用しやすいかたちになっていないことを、
 十分に認識していただいたうえで、
早急にJRと上信電鉄の乗り換えを、よりよいかたちにしていただければ、
  上信電鉄沿線に住むひとりとして、とてもうれしく思います。

かつて、JRになる前の国鉄時代には、国鉄の車両が「あらふね号」として、上信電鉄の線路を走ったことがあります。
「あらふね号」については、こちらのブログ

  http://geogunma.blogspot.jp/2013/06/blog-post_21.html
   上信電鉄 あらふね号
      
             で紹介させていただいております。

これからの高齢社会などをふまえ、両社ともバリアフリーの駅づくりに取り組まれているなか、

  http://geogunma.blogspot.jp/2013/10/blog-post_2.html
   上信電鉄-秋の朝 〝地域の足〟として、117年

また、長年にわたって、地域の足として、親しまれている鉄道会社の両社が乗り入れている駅で、このように不便な状態にしていることはないと思うのですが・・・

※ 投書された方は、世界遺産の見学者への対応をもとにして、乗り換えを便利にされることを提案されていますが、
  投書された方も述べているとおり、それは「今後1年程度」のことかもしれません。
  私は、先述したとおり、日常的な利用者への不便解消の視点で、
 JRと上信電鉄の不便な乗り換えを改善していただきたいと思っています。
  それは、世界遺産見学の一時的な利用者増への対応でなく、
 持続性のある地域住民の足としての公共交通機関の役割を、
 これからも果たしていただきたいと思っているからです。

2014年6月27日金曜日

上毛新聞の記事を読んで

出店計画、改装相次ぐ

いま、旧富岡製糸場周辺で、世界遺産登録が決定後、出店計画が増えていることが報じられていました。

このころ(2006.10.13)の富岡市内の通りは、旧富岡製糸場前の通りを含めて、「富岡製糸場を世界遺産に」といったのぼり旗が散見される程度で、人通りはすくなく、たいへん静かなものでした。
この奥に旧富岡製糸場があります。 撮影:2006.10.13
画像の右側は、宮本町通りです。

このころ(2007)には、旧富岡製糸場の見学者がいることにはいましたが、旧富岡製糸場内も旧富岡製糸場前の通りも閑散としたものでした。
この奥に見えているのが旧富岡製糸場です。 撮影:2007.6.30
それが最近では、旧富岡製糸場前の空き店舗などが土産物店や飲食店などになり、賑わいをみせるようになってきました。
旧富岡製糸場正門前の通りです。 撮影:2013.11.13
画像左側の店舗は、2014.6.25付けの上毛新聞に掲載された田島屋さんです。

昨年の11月に撮影したこの画像と比べていただきますと、いまはたいへん賑わっていることがおわかりいただけるのではないでしょうか。
撮影:2014.3.4
ことし3月のときでも、こんな感じでした。

世界遺産登録によって、旧富岡製糸場の見学者が増えて、こういった店舗で働く方々も増え、地元の経済がよくなり、それが継続するのであれば、富岡市が世界遺産を守るために支出することもやむを得ない(支出の金額にもよりますが)と、私は考えるのですが・・・

また、この賑わいがはたしていつまで続くことか・・・、という心配もあります。

以前、このブログで書きましたが、出店後に営業利益が出なくなれば、閉店、撤退していくことになるわけであり、いまは出店して、きれいな店舗ができているからといって、
撮影:2014.3.4
今後、旧富岡製糸場への見学者が減少して、出店した店舗が閉店、撤退してしまえば、
数年後、それも遠くない時期に、こんな状態があちこちで見受けられるのではないか、とも私は想像してしまうのですが・・・

2014年6月24日火曜日

群馬交響楽団

第500回定期演奏会

後世に残すべき群馬県の宝・財産はなにか、
 と問われれば、私は、

  群馬交響楽団(群響・ぐんきょう)
 上毛かるた
          
          のふたつをあげたいと思っています。        

もちろん、このほかにもたくさんのお宝がありますが、先の大戦による敗戦後の荒廃したわが国にあって、小さな都市である高崎市で誕生した〝高崎市民オーケストラ(今日の群響)〟は、まさに奇跡といってよいほどすばらしいできごとであったからです。

上毛かるたも戦後のわが国にあって、こどもたちに郷土に誇りを持ってもらおう、ということで、食べるものさえこと欠く混乱期につくられました。

敗戦後における群馬県において、県民の精神的な支えになったり、潤いのある暮らしをつくってくれたのは、群響の音楽であり、こどもたちが「つるまうかたちのぐんまけん」と大きな声で読む声を聞いて、多くの人々が元気になっていったといっても過言ではありません。
1946.3.10の第1回定期演奏会から数えて、第500回の定期演奏会が群馬音楽センターで開催されました。
第500回は、「皇帝(ピアノ:清水和音さん)」、「アルプス交響曲(リヒャルト・シュトラウス)」が演奏されました。
たいへんすばらしい演奏に、拍手が鳴りやみませんでした。
1946年といえば、敗戦の翌年のこと。
敗戦の1945年に〝高崎市民オーケストラ〟が誕生したのですが、これはほんとうにすばらしいことであったと思います。

第500回のプログラムには、これまでの歩みとともに、群響に関係のあった各氏のメッセージも掲載されています。
小澤征爾氏のメッセージを読ませていただいていて、私が小学生のとき、群響の移動音楽教室によって、初めて生(なま)の演奏を聴かせていただいたことを思い出しました。

小澤氏のメッセージにある悴田さんのお名前にも記憶があったので、帰宅後に調べてみたところ、群馬県史にある移動音楽教室の写真の提供者でした。
「群馬県史 通史編 9 近代現代3 教育文化」から転載させていただきました
このなかに若いときの小澤氏がいるのかもしれません。
昭和30年代に小学生で、安中の小学校に通っていた方々は、若いときの小澤氏に出会っていたことになります。

小澤氏が〝世界のオザワ〟になる前、バスに乗って安中市の小学校に行き、こどもたちに指揮や演奏を披露し、子どもたちが生(なま)で間近に見て、演奏が聴けたということは、まさに群響があったからこそであり、群馬に群響がなければ、こんなに幸せなことが起きることはなかったでしょう。

小澤氏にとっては、「今夜は、悴田さんのお宅で、おなかいっぱいご飯を食べさせていただこう」という思いもあって、安中に出向いたかもしれませんが、若いときの小澤氏のエピソードとして、たいへんおもしろいと思って、ここで紹介させていただきました。

群響の移動音楽教室は、映画の「ここに泉あり」で多くの方々に知られていますが、当時のこどもにとっては、たいへん楽しみな学校行事のひとつでした。
講堂や教室の床に座って、山のこどもにとっては、初めて見る楽器、初めて聴く楽器の音色に興奮したものでした。

群馬県史によれば、小沢氏は群響の創立15周年記念演奏会で指揮しました。
小澤氏と群響の縁をつよくしていただいた悴田氏、崔氏、丸山氏には、感謝しても感謝しきれない思いがします。
「群馬県史 通史編 9 近代現代3 教育文化」から転載させていただきました
群響が群馬県のお宝とすれば、高崎市民のお宝のひとつは、音楽センターではないでしょうか。
撮影:2014.2.20
音楽センターに出向くたびに、この石碑の「昭和三十六年ときの高崎市民之を建つ」を読ませていただくのですが、この碑文を読ませていただきますと、音楽を友として潤いのある暮らしをしていこう、と考えられた当時の人々の思い、決意が込められているように感じ、いつもすがすがしい気分になります。

これが、ほんとうの市民参加ということではないかと思います。

どうぞ、群響の定期演奏会がこれからも続いていきますように、お近くで群響の演奏会があるときは、万障差し繰ってお出かけください。

移動音楽教室で感動をいただいた群響には、これからもがんばってほしいと思った第500回の定期演奏会でした。

今年の「森とオーケストラ」のようすです。

http://geogunma.blogspot.jp/2014/04/35.html
第35回 森とオーケストラ-群馬の森

動画でメイ指揮者をご覧ください。

2014年6月16日月曜日

富岡製糸場と絹産業遺産群-富岡製糸場に関して

富岡製糸場の用水は、
十分に確保できていたのでは?

と、ある方から質問をいただきました。

といいますのは、先日のブログ記事

http://geogunma.blogspot.jp/2014/06/blog-post_11.html
富岡製糸場と絹産業遺産群-富岡製糸場 間違った情報があるのでは・・・・・?

で、

水利は不便であるが七日市から引いている用水の三分の一も使用すればことたりること

 と、富岡製糸場誌に書かれているということを述べたところ、

 1/3の水量で間に合うということであり、十分に用水が確保できていたのではないか、

   ということでした。

たしかに建設前の見込みでは、そのとおりであったのでしょうが、実際には大量の用水が必要になり、その安定的な確保は実に困難なことでした。

たとえば、夕立や大雨などによって、川の水が濁ってしまいますと、その濁り水を製糸に使用することができず、さりとて場内の沈澱池でのろ過や鉄製水槽に貯めた水量で、濁り水がおさまるまで操業することは、まことにたいへんなものでありました。
また、台風などの大水で、取水口が損壊して、取水できなくなったといったこともしばしば発生しました。

工場用水が必要な工場にとって、安定的に用水が確保できないというのは、たいへんに困ったことになります。

こういった用水事情に関しては、
にも参考文献として紹介していただいていますが、
甘楽多野用水誌に詳しく述べられています。
これ(↑)は、旧富岡製糸場建造物群調査報告書のなかの一節ですが、甘楽多野用水誌を編纂する際、浅岡堰の取水口をさがしたのですが、ここにあったという伝承はあるものの遺構を確認することができませんでした。
この浅岡堰から山下堰に移行するのですが、これ(↓)が現在の山下堰になります。
撮影:2003.12.5
現在の山下堰の近くには、これ以前の取水口が残されています(↓)が、
撮影:2003.12.5
これだけの堰がつくられたのは、ごく最近のことになります。

浅岡堰をはじめ、富岡製糸場がつくられた明治の初めのころの堰については、戦後間もなくに実施された高田川護岸工事の記録などを見ましても、はっきりしたことがわかっていませんが、当時の土木技術水準から想像して、川原に石を積んで、そこへ本流の水を引き込む程度のものであったと考えられます。

いまでも大水がありますと、用水管理は堰を破損させないように最大限の注意をしています。

これ(↓)は、高田川に設置されている君川堰の用水取り入れ口です。
撮影:2014.6.1
ふだんは、このようになっていますが、大水になったときは、堰を倒して、川の水をあふれさせることなく、下流に流すように対応します。
撮影:2014.6.10
堰を倒して、濁流を下流に流しているようす(↑)です。

とくに高田川(丹生川合流後も含めて)は、集水区域が狭いうえ、岩塊の集合体そのもののような妙義山がひとつの水源にもなっているため、保水力に乏しく、大雨などのときには、一気に出水してしまうという〝宿命〟もあって、富岡製糸場ができる前からも七日市村の人々は、水の確保、用水の管理に大きな苦労を強いられてきたというのが実態であったといえるでしょう。

製糸工場をはじめ、どの工場においても必要な用水とは、つねに水量・水質が安定していることです。
これが不安定であることは、たとえ平時には間に合っていたとしても、間に合わないときがあるという不安を抱えての操業となり、たいへん気苦労の多い毎日をおくることになってしまいます。

また、用水の確保量ですが、前掲の富岡製糸場での当所見込みと異なって、実際には大量の用水が必要になり、その確保のために苦労されていたという、これが実状であったといいってよいでしょう。


富岡製糸場は、器械製糸の初めてだったの?

つぎの質問は、NHKのテレビ番組をご覧になった方からいただきました。
放送:2014.5.21
この映像(↓)をご覧になって、疑問に感じられたということでした。
放送:2014.5.21
この質問については、つぎの画像(↓)をご覧いただくことで、回答になっているのではないかと思います。
前橋市の敷島公園にある蚕糸記念館の展示です。
ここに「日本で最初の機械製糸場跡」というパネル展示があります。
この製糸場では、富岡製糸場より2年半も前に、機械を導入しての製糸を行っていました。

したがって、NHKで放送された内容には、正しくない表現があったということになる(※)のではないでしょうか。
  ※ 器械製糸の定義等によって、NHKの表現が正しいのかどうか・・・そこまでは、私にはいまのところわかりません。
    あくまでも、 前橋に「日本で最初の機械製糸場」があったということであり、放送に間違いがあったと述べているわけ
   ではありません。 

以上のとおりです。

2014年6月14日土曜日

フェイスブック-うれしかったこと

きのうは うれしかったことが
    ふたつ ありました

きのうのブログ

http://geogunma.blogspot.jp/2014/06/blog-post_13.html
上信電鉄-下仁田駅  下仁田駅が上毛新聞に掲載されました

  で、下仁田駅の画像(↓)
撮影:2012.3.22
を掲載したところ、FB仲間のY,Kさん(下仁田町にお住い)から、

 下仁田駅前のれすとらんヒロの若主人から、青いビニールシートをかぶっている自販機が撤去されたと聞いたので、
 その画像を・・・

 ということで、Y,KさんがFBに投稿されたのが下の画像です。
うれしかったことのひとつめは、私が投稿したFBの記事を読んでいただいているうえ、レトロな下仁田駅前にある〝不似合いなもの〟について、違和感を感じられていた方がいらしたことです。

この2枚の画像を見比べていただきますと、上の画像より下の画像のほうが、たいへんすっきりした感じになっています。
うれしかったことのふたつめは、その自販機が駅の入り口から移動(撤去された?)したことです。
撮影:2012.3.22
下仁田駅の出入り口ですが、やはり青いシートをかぶった自販機は、この駅前では〝不似合いなもの〟であったといえるでしょう。

下仁田町にかぎりませんが、古いまちなみを残すところで、

 ここにこんなものを置いていて・・・
   実にもったいないな
 
  という場面に出会うことがありますが、
 
 ちょっとした気配り - その場所に置いてある〝不似合いなもの〟 を動かすとか、 
 ごみを片付けるとか・・・ -

  を第一歩として、美しいまちなみ-景観-をつくることができると、私は思っています。

きのうは、景観に関心を寄せていただいている方から、とてもよい情報をいただき、たいへんうれしい一日になりました。

Y,Kさん、たいへんありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

以前に撮影した画像を掲載して、最新の姿を紹介しないブログ記事になってしまったことを、たいへん申し訳なく思っております。
このブログをご覧いただいている皆様には、ご容赦をいただき、これからもご覧いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

さて・・・
 レトロな下仁田駅の紹介を続けさせていただくことにします。
撮影:2012.3.22
この画像は、駅舎の西になります。

以前、このブログ

http://geogunma.blogspot.jp/2013/06/blog-post_21.html
上信電鉄 あらふね号

 で、旧国鉄時代には、国鉄の車両が下仁田駅まで運行されていたことを紹介させていただきました。
撮影:2004.9.9
このような看板まで立てて、主に首都圏からのハイカーを迎え入れていた時代がありました。
撮影:2012.3.22
若いとき、この改札口を通って、荒船山に登った、という思い出のある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
撮影:2012.4.22
下仁田駅のホーム手前のポイントです。
撮影:2012.4.22
懐かしい画像のついでに、999号の画像を掲載しておきます。
下仁田駅を出発して、高崎駅に向かうところです。

下仁田にお越しいただいた記念、思い出として、
レトロな下仁田駅を背景にした写真撮影もよいと思います。

安全・快適な上信電鉄で、
ジオパークの町・下仁田に
お出かけください。

2014年6月13日金曜日

上信電鉄-下仁田駅

下仁田駅が上毛新聞に掲載されました

夕暮れの下仁田駅の写真とともに、下仁田駅と下仁田町の説明が要を得て簡潔に述べられ、たいへんすばらしい紹介をしていただきました。
とくにジオパークにふれていただいているところが、私としてはたいへんうれしいものがあります。
「富岡に劣らない豊かな歴史と自然に満ちている」という部分については、
        「富岡以上に豊かな歴史と自然に満ちている」というのがよいのではないか・・・と。
                                             (これは、私のひとり言)
下仁田駅舎です。
関東の駅百選に選ばれている駅舎で、とてもおもむきのある建物です。

下仁田に駅がつくられた経緯については、
  
  http://geogunma.blogspot.jp/2013/07/blog-post_4.html
     上信電鉄 初めて列車が走ったころトンネルがふたつあった!?

  で述べたとおりですが、明治期の下仁田の人々の熱意で、鉄道が下仁田まで敷設されました。

下仁田町にとって、上信電鉄の駅があるということは、まさに大きな宝であり、その宝を残してくれた先人には、感謝してもしきれないほどだと私は思っています。
いまは、高崎駅から下仁田駅まで、従来の車両とともに、7000形も運行されていて、より快適に、そして安全に旅をすることができるようになりました。
下仁田駅に向かう7000形(カラーリング前)の
車内から撮影した動画をご覧ください。

いかがだったでしょうか。
また、上毛新聞の連載では、私が乗り降りさせていただいている南蛇井駅も登場しています。
南蛇井駅の駅舎です。
こちらも下仁田駅と同様に、歴史を感じさせる建物になっています。
これは、富岡駅ですが・・・
どこに駅があるか、おわかりになるでしょうか。

この駅舎でも、そのうちになじんでくるのかもしれませんが、

  http://geogunma.blogspot.jp/2014/02/blog-post_4.html
    上信電鉄-上州富岡駅  新駅完成式&新車両出発式

   いまのところ、私には奇異な構造物としか思えません。

新しい富岡駅をはじめ、昔からの下仁田駅など、いろいろな駅舎を見るのも楽しい旅になるのではないかと思います。

南蛇井駅に近づきますと、
 
  つぎは、なんじゃい、なんじゃい
     なんじゃいに到着です

 という車内アナウンスがありますので、その楽しい音(おん)の響きもお楽しみください。

2014年6月12日木曜日

初夏の奥栗山

現地観察会が実施されます!
 皆さまのご参加をお待ちしております!!

奥栗山渓谷は、清流と美しい縞状チャートの谷で、いまの時期は青葉がいっぱいです。
すでに、

  http://shimogeo.exblog.jp/20780323/
    下仁田町自然史館日記

  でお伝えしてありますが、
    
     6月22日(日)に現地観察会が実施されます。
チャートの谷には、いくつもの滝があり、きれいな水が勢いよく流れ落ちています。
美しいチャートと清流、青葉がいっぱいの奥栗山渓谷です。
迫力ある滝を動画でお楽しみください。
いかがだったでしょうか。
奥栗山渓谷の滝の迫力を感じていただけたでしょうか。
滝を上のほうから撮った画像です。

この撮影ポイントは、高いところが苦手な方は、すこし足がふるえてしまう・・・そんな感じがしますが、足元に気をつけて遊歩道を歩いていただければ、まったく心配なく、奥栗山渓谷の散策をお楽しみいただけますので、どうぞご安心を。

現地観察会では、研究者による説明もありますので、さらに楽しいものになります。
下仁田自然学校の細矢尚先生が説明をされているところです。

こちらの写真は、いったいなんだと思いますか。
実は、これは・・・

 世界遺産になるとの話題で、いま、たいへん有名な富岡製糸場を建設する際、
  ここで石灰岩を焼いて、建設資材に使用していたという、
    その遺跡なのだそうです。

奥栗山渓谷には、自然の見どころいっぱい、歴史を語る遺跡もあります。

たいへん楽しい現地観察会です。
 どうぞご参加ください。
  皆さまのご参加をお待ちしております!!!
※ ここで使用した画像は、以前に実施された現地観察会(2011.6.4)のものです。