2013年12月24日火曜日

世界遺産候補

富岡・おもてなし五カ条

先日のブログ記事 くりっぺ 第74号 発行!!において、
岩崎正春さんの

  世界遺産もジオパークも
    「お・も・て・な・し」の心で

と題する提案をくりっぺ(下仁田自然学校だより)に掲載させていただいたことを紹介しました。
全文については、岩崎正春さんのブログ      http://iwazaki.wordpress.com/2013/12/21/%E4%B8%8B%E4%BB%81%E7%94%B0%E7%94%BA%E3%81%A7%E6%B4%BB%E8%BA%8D%E3%81%99%E3%82%8B%E6%83%85%E5%A0%B1%E8%AA%8C%EF%BC%92%E5%9B%A3%E4%BD%93/
                                 をご覧ください。
2013.12.23の上毛新聞によれば、

  富岡製糸場の世界遺産登録を前に
  市民のおもてなし意識を高めようと、
  富岡商工会議所ととみおか観光まちづくり推進協議会は、
  「とみおかし おもてなし五カ条」を作成した

とのことで、
たいへんよい取り組みを考えられたと思いました。

このブログ  http://geogunma.blogspot.jp/2013/06/blog-post_17.html
                 世界遺産に登録されると、どんな効果があるの?  で、
富岡製糸場が世界遺産に登録されたとして、
しばらくは、たくさんの来場が期待できるかもしれませんが、
そのあとは来場者がばったり、
といった事態になるのではないでしょうかと申し上げました。

以前、おもてなしナンバー1の加賀屋旅館の取り組み、考え方を、
            http://geogunma.blogspot.jp/2013/07/blog-post_2.html
         「一期一会のおもてなし」
として、このブログで紹介させていただきましたが、

 富岡市民のすべてがおもてなしの心で、
 富岡を訪れていただいた方々に接することができれば、
 たいへんすばらしいこと

であると思います。

富岡製糸場の建物を何度も見たいという方々は、それほど多くないのではないかと私は思っていますが、

  富岡製糸場を見に来られた方々に、

  富岡は、とてもいいところだ!
  富岡に、また行ってみたい!

 と思っていただけるとすれば・・・、
 
それがいちばんよいことだと考えています。

この五カ条のなかに、

  かみくずもない、きれいなまち

というのがありますが、

  きれいなまちづくりは、重要なことであり、
  いまの富岡で優先すべき大きな課題

ではないかと私は思っています。

以前、  http://geogunma.blogspot.jp/2013/08/blog-post_6.html
            とても気になっていること  をはじめとして、
富岡市内の歩道上のゴミステーションをはじめ、宮本町通りなどにある荒れた空き地を紹介しましたが、
こうした場所をきれいにしていくことも必要ではないでしょうか。


  富岡を訪れる方々は、

  富岡のすべてを見て、
  富岡のすべてから感じた印象で、

  富岡がよかったか、
  富岡がよくなかったか、

        を判断するといってよいでしょう。

  そのうえで、

  また、富岡に行ってみたい
                                     と考えるか、
  もう、富岡に行きたくない
                                     と考えるか・・・、
  ということになるのではないでしょうか。



富岡でおもてなしを市民みんなが考えるのであれば、まずは身近なところをきれいにして、
きれいなまちづくりから始めるべきではないかと思うのです。

笑顔であいさつは、とても大事なことですが、ゴミが歩道に置かれていたり、荒れ果てた空き地が散見されるなかでの笑顔のあいさつは、いまひとつ温かな心が感じられないのではないでしょうか。

いつもこざっぱりした清潔な感じのまちにすれば、おのずと品のよい笑顔があふれる富岡になると思うのです。

  まずは、きれいなまちづくりから、

というのが私の考えです。

  ※ まちなかの画像については、以前に撮影したものであり、
   いまのようすと異なっている-きれいになっている?-かもしれません。
    ここに掲載した画像は、以前に撮影した画像であることをご承知おきください。 

2013年12月23日月曜日

上信電鉄

クリスマストレイン 2013.12.22(日)

重連のデキに牽引されたクリスマストレインです。
多くのカメラマンが撮影するなか、クリスマストレインが走って行きます。

これは、上り方向のデキです。

きのうのクリスマストレインを動画にまとめてみました。

上り方向のクリスマストレインを待っていたところ、7000形が通過して行きました。
後方には、鹿岳と四ツ又山が見えています。

寒い日が続きます。
どうぞ、お気をつけて、
お元気でお過ごしください。

2013年12月21日土曜日

上信電鉄


クリスマストレイン   2013.12.22(日)
     重連のデキが牽引

上信電鉄のデキといえば、鉄道ファンで知らないひとがいない、というほど有名ですが、そのデキが2両-重連-で、あすの日曜日、クリスマストレインを牽引します。

 すでに乗車券は完売

      http://www.joshin-dentetsu.co.jp/images/tetudou/ibent/Xmas2013.pdf
  
       になったとのことです。
   
 冬の西上州を走るデキを見にお出かけになりませんか。

     あすの運行予定

        高崎駅発   9:55

        下仁田駅着 11:25



      【おすすめコース】

     11:25 下仁田駅着のクリスマストレイン → まちなかで食事 → 
           お帰りのときは、道の駅しもにたで休憩・買い物
  
    ※ 下仁田駅発の予定は、 14:43ですので、デキの入れ替え作業等を見て、まちなかで
      食事後、14:43発の下仁田駅発を見るのもよいと思います。

どうぞ、クリスマストレイン-重連のデキ-を見に
下仁田へお出かけください。

2013年12月18日水曜日

ジオパーク-再認定審査

条件付きの再認定 2年後 再審査-
 
2013.12.17にネットで配信された読売新聞の記事

 

「恐竜渓谷ふくい勝山ジオパーク」
       http://www.city.katsuyama.fukui.jp/geopark/
    の再認定について、
ぎのとおり報じました。
     恐竜化石の情報発信を勝山ジオパークに警告

 学術的に貴重な地形や地層がある自然公園「ジオパーク」に認定されている福井県勝山市に対し、認定機関の日本ジオパーク委員会(茨城県つくば市)は16日、「恐竜化石の産地についての情報発信が不十分」として警告した。2年以内に改善されない場合、認定が取り消される。国内33地域のジオパークで警告を受けたのは初めて。
 ジオパークは認定を受けると、自治体などが保全しながら、見所を巡るツアーの開催や教育に活用することが求められる。勝山市は恐竜の化石が出土する1億年前の地層があり、2009年に市全域が「恐竜渓谷ふくい勝山」として国内版の認定を受けたが、市や県が企画したツアーでは集客などで苦戦している。
 この日の委員会は4年に1度の再認定審査があった。委員からは、年間50万人以上が訪れる地元の県立恐竜博物館をジオパークの見所として十分に活用していないどのようなジオパークにしていくのか市のまちづくりの方向性が不明瞭――などとして、警告に当たる「条件付きの再認定」と判断。2年後に再審査することを決めた。
 勝山市の水上実喜夫・企画財政部長は「厳しい結果。指摘事項を真摯()に受け止め、今後、具体的な問題点を確認した上で、どのように改善していくのか対応を考えたい」とコメントした。
 世界では過去、豪州などで認定が取り消された例があり、委員長の尾池和夫・京都造形芸術大学長は「地域の資源をジオパークでいかに活用するか。県や市、地元住民らで話し合ってほしい」と話した。

    
ジオパーク 
 地球の成り立ちがわかる地形や地層などがある自然公園。日本ジオパーク委員会が勝山市やとかち鹿追(北海道)など33か所を「日本ジオパーク」として認定し、このうち隠岐(島根県)など6か所が世界ジオパークネットワークから「世界ジオパーク」の認定を受けた。世界版は現在、29か国100地域に広がっている。

   観光資源、質の維持が必要

 ジオパークの認定を目指す地域は国内で急増している。認定によって、身近な場所が新たな観光資源へと生まれ変わる可能性があるからだ。国内版の認定機関・日本ジオパーク委員会が設立された2008年以降、49地域が手を挙げ、33地域が認定を受けた。ただ、運営組織の活動が不十分だったり、期待した経済効果がみられなかったりする地域もある。
 NPO日本ジオパークネットワーク(東京)によると、現在、16地域が「地域活性化の起爆剤に」と国内版の認定を目指している。今年度も8地域が活動を始めた。
 だが認定後、運営組織の会合が年1回しか開かれなかったり、ガイドが育たなかったりと活動が不十分な地域もある。委員会関係者は「ジオパークの質を維持するには今後も警告はやむを得ない」と話す。
 警告を受けた福井県勝山市では、県立恐竜博物館に年間50万人以上訪れるのに、ジオパークの見所を巡るツアーは今年8月の3日間で参加者34人。ある観光業者は「地質や岩といっても一般にはピンとこないのでは。ジオパークの名前だけが独り歩きしている」と漏らす。
 09年に世界認定された島原半島(長崎県)では08年85万人だった宿泊客が11年は70万人に減少した。民間調査会社・長崎経済研究所は「雲仙普賢岳の噴火後、観光客が減り、歯止めを期待したが、地味で集客効果が見られない」と指摘する。
 一方、11年に世界認定された室戸(高知県)では、認定後2年間でガイドが観光客計1万6000人を案内した。室戸市の担当者は「何もなかった所に大きな効果」と喜ぶ。
 日本ジオパークネットワークの斉藤清一事務局長は「認定がゴールとなり、その後の活動が停滞する地域もある。焦らずに、時間をかけて活動してほしい」と話している。
20131217  読売新聞)
 
下仁田ジオパークは、2011.9.5に日本ジオパークに認定され、いまが3年目、ということになります。
日本ジオパークに認定されたあと、多くの方々に訪れていただくようになりました。

「恐竜渓谷ふくい勝山ジオパーク」の再認定における結果をふまえるとき、
 
4年に1度の再認定に向けて
  下仁田ジオパークには、課題がないのか・・・
  〇 まちづくりの方向性は・・・?
  〇 情報発信は・・・?
  〇 ジオツアーの受け入れ態勢は・・・?
  〇 ガイドの養成、活用は・・・?
   などなど
をしっかり考えなくてはならないときかもしれません。
 
下仁田ジオパークのHP は、つぎのHPをご覧ください

日本ジオパークネットワークのHP 

  下仁田ジオパークの公式HP

2013年12月15日日曜日

上信電鉄

7000形に乗って、下仁田に出かけませんか?

  先に、このブログで、

      http://geogunma.blogspot.jp/2013/12/2013123.html
        上信電鉄  2013.12.3 新型車両(7000形) 運行開始!!!

           を掲載しましたが、美しい7000形に乗って、下仁田にお出かけになりませんか。



千平駅から下仁田駅までの区間-もっとも困難な工事が行われた区間-のようすを動画にまとめました。
鬼ヶ沢鉄橋や創業時のトンネルなどもご覧いただけます。

南蛇井駅に停車している7000形です。
車体も美しいですが、車内もまた美しい7000形です。
下仁田駅に到着した7000形です。

下仁田には、ジオパークの見どころをはじめ、おいしいものもたくさんあります。

安全、快適な上信電鉄で、
下仁田にお出かけください。

見て楽しい、歩いて楽しい
食べておいしい、飲んでおいしい
下仁田ジオパークへ
お出かけください。
 
下仁田ねぎ・こんにゃく
寒くなってきて これからますます
おいしくなります

2013年12月14日土曜日

下仁田戦争

元治元年11月16日(1864.12.14)未明 開戦
天狗党VS高崎藩 

いまから149年前、元治元年11月16日(1864.12.14)の早朝、下仁田で大きな戦いが始まりました。

 この戦いで、
   天狗党   4名
   高崎藩 36名
            の戦死者が出ました。
戦死者のなかには、最後は切腹して果てた、わずか13歳の少年もいました。

  (丑之助は)あまりの深手のために一行と行動を共にすることができず、自ら願って首を打たれた。
 いざ切腹する場に及んで、介錯人に
 「しばらく待ってほしい」と申し入れた。
      (略)
 「ざんばら髪のために首までたれ下がっている。これでは首をはねる時に、髪でもって刀がすべって良く切れないだろう。髪を上に束ねるまでしばらく待ってほしい」といった。
 その十三歳とも思えぬ豪気さに居並ぶ将士たちも感嘆したという。
                       「天狗党と下仁田戦争(大塚政義著・上毛新聞社)」

さらには、こんな悲劇も・・・

 掃討戦が終わってから、水戸浪士は捕虜数名を(略)青岩河原につれていき、畳二枚を敷いてその上に列座させた。
     (略)
 高月鉄五郎、二木助五郎、竹内嘉平次、山崎儀平、田上繁蔵らは武士であったので、武士としての面目を立たせて何れも切腹させた。
 この捕虜の中に山名よりつれ従ってきた医師、中村俊達がいた。
 この時、俊達は
 「士道の情をもって、切腹を申し付けてくれ」と願い出た。
 耕雲斉はその勇気に感じ降伏を進めたけれども承知せず、
    (略)
 「なんの面目があって降伏ができようか」といい残して切腹して果てた。
 それは武士も及ばないほど見事なものであったという。
   (略)
 武運つたなく捕虜となったけれど、みなよく戦い、かなりの深手を受けており無傷のものは一人もいなかったという。
 武田耕雲斉は
 「みな勇士である。丁重に葬ってやれ」といったという。
 「天狗党と下仁田戦争(大塚政義著・上毛新聞社)」

下は、捕虜になった高崎藩士と医師の中村俊達が切腹して果てた「青岩河原」です。
下仁田戦争では、双方、とくに高崎藩に大きな犠牲が出ました。
上の画像は、高崎藩の本陣がおかれた近くに立てられた石碑です。

 浪士たちも久保田藤吉、斉藤仲次らの戦死者を本誓寺に葬り、下仁田を引き上げたのは同日の午後四時頃であったが、勘定方三人は後に残って、宿舎やその他店々の買い物代までも細かく取り調べ、もれなく支払いをして出発した。
 筑波山より甲冑実戦の無頼の徒が到来したと町人の緊張は一方ならず恐れていたが、その軍規も実に厳正であったから町人は後々までこれを賞賛しつづけた。
 「天狗党と下仁田戦争(大塚政義著・上毛新聞社)」

そして、きょう、元治元年11月16日(1864.12.14)は、本宿の神戸金右衛門宅(現当主 神戸金貴氏)を本陣として、天狗党の人々は、上州の地での最後の夜を過ごし、あすの朝、信州に向かって行きます。

武田耕雲斉らが宿泊した建物と部屋は、双渓堂と称され、いまも残されています。

双渓堂の現当主である神戸金貴さんのブログには、四季折々の美しい双渓堂が掲載されています。
        かねさんの本宿フォトライブラリー
                http://blog.livedoor.jp/kanetaka2/archives/cat_50021176.html
                           
                             どうぞ、ご覧ください。
上の画像は、現在の本宿の街並みです。

いまから149年前、ここを通過していった天狗党の一行は、
このあと多くの苦難と悲劇が待ち受けていることになるのですが、
まだこのときは、そうした運命をだれも知っていませんでした。
 
下仁田にお出かけの節は、
下仁田戦争の史跡も
ご見学いただければ幸いです。

2013年12月13日金曜日

下仁田戦争

元治元年11月15日(1864.12.13)夕刻
天狗党 いよいよ下仁田に到着

このブログを書いているのは、2013.12.13(金)の午前8時前。
いまから149年前の1864.12.13の朝、水戸天狗党の総勢925名が吉井を出発したころかもしれません。
きょう、水戸天狗党は、吉井から6里の道のりを歩いて、下仁田に到着します。
小坂坂(おさかざか)峠には、水戸市長による石碑が立てられています。

下の画像は、小坂坂峠道の入り口(富岡市南蛇井側)です。
左側が小坂坂峠道で、右側は県道(南蛇井下仁田線)です。

   925名の人々が
  乗馬・小荷駄207頭とともに
  大砲15門をひいて、
     この小坂坂峠道を越えて、下仁田に向かって行きました。

「天狗党と下仁田戦争(大塚政義著:上毛新聞社)」によれば、

 神勇、天勇、地勇、龍勇、義勇、正義の七隊が、それぞれ武装をかため、堂々と隊列を組んで、下仁田に乗り込んできた。

 天狗党・水戸浪士軍がやってくるというので、町は不安と恐怖と、さらには怖いもの見たさの気持ちで、蜂の巣をつついたような大騒ぎであった。

といったものでした。

下の「寛永通宝」は、小坂坂峠道で見つけたものです。
水戸天狗党の歩いた道を追体験しようという思いで、小坂坂峠道を歩いていたとき、切通しの真ん中に置いてあるように落ちていたものです。
そんなこともあって、この「寛永通宝」は、旅人が落としたものかもしれませんが、私は水戸天狗党のだれかが落としたものではないか・・・と、思っています。

この寒いなか、夕刻、下仁田に到着した水戸天狗党の人々は、下仁田町内のそれぞれの家に泊めてもらい、温かい食事をとったり、からだを休ませることができたのですが・・・

この日には、高崎藩などによる水戸天狗への攻撃準備が始められていました。

    元治元年11月16日(1864.12.14)の朝、
       下仁田戦争の幕が切って落とされることになります。

下仁田戦争の展開については、次回のブログで!!!


     【下仁田戦争関連のブログ記事】
http://geogunma.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8.html
下仁田戦争 天狗党の西上-幕末の悲劇-

2013年12月11日水曜日

中小坂鉄山

   第21回石川薫記念地域文化賞
中小坂鉄山研究会が奨励賞を受賞!!!

下の画像は、2013.12.5付の上毛新聞の記事です。
いまごろになってしまいましたが、中小坂鉄山研究会の皆さんに心からお祝いを申し上げます。

      長年の地道な研究活動が評価されての奨励賞受賞、
         誠におめでとうございます。

中小坂鉄山は、わが国の明治以後の近代化を支えた製鉄所もあり、いまは下仁田ジオパークのジオサイトのひとつになっています。


    中小坂鉄山で採掘されていた磁鉄鉱に関しては、
       下仁田自然学校運営委員の和田晴美さんのブログ
         http://geoharumi.blogspot.jp/2013/12/blog-post_4.html
             下仁田ジオパーク 地学講座 磁鉄鉱・ 照葉樹林  をご参照ください。

【このブログの中小坂鉄山に関連する記事】
中小坂鉄山  新島襄と中小坂鉄山

中小坂鉄山  鉄で結ばれた縁

中小坂鉄山  栄華をしのぶ鉄山(てつざん)

2013年12月8日日曜日

下仁田戦争

天狗党の西上-幕末の悲劇-

元治(げんじ)元年11月16日の朝、高崎藩の兵と天狗党が下仁田町で戦いました。
これが、下仁田戦争といわれるものです。

下仁田町のHP
            http://www.town.shimonita.lg.jp/kyouiku/m02/m06/02.html
     から引用させていただきますと・・・ 

  「天狗党挙兵と西上の途」
 (2) 水戸藩においては、ペリー来航より、29年前の文政7年(1824年)にイギリスの捕鯨船が薪や水を求めて上陸していた経緯もあり、水戸藩には攘夷論の急先鋒も多く存在した。こうした中、水戸藩において文武両道に優れた数名が『尊王攘夷』を旗印に筑波山に挙兵し、その集団は天狗党と呼ばれる一派であった。
  挙兵当時は、わずか63名であったが、やがて発起人を慕う青年武士や諸国の浪人、農家の次男、三男等が続々と筑波にやってきた。同志も増え、総勢400人ほどとなり、水戸藩及び幕府も本格的に筑波討伐を始めた。幕府は高崎藩以下11藩に対し、厳しい命令を出した。
 高崎藩は2,000人を出兵した。
 天狗党と幕府軍の最初の交戦は幕府軍が勝利をおさめたが、時をあけずして天狗党は、勝利に気を良くし祝杯に酔った幕府軍の寝込に夜襲をかけ、総崩れさせた。その後、幕府軍は1万3,000人の討伐兵を送り込み、7ヶ月に及ぶ戦いに勝利した。
 天狗党の残党920余名は尊王攘夷の素志を貫徹すべしと、在京の徳川慶喜へ進言するために西上の途を決めた。
 これを聞いた沿道の諸藩は何事もなく領内を通り過ぎることを願った。
 上州へは太田宿から入り、藤岡、吉井、七日市、一ノ宮を経て下仁田に入り、高崎藩と交戦を繰り広げた。
 天狗党はさらに、信濃、美濃と戦をしながら通過し、越前に入ったが幕府軍3万人との戦いに力尽き、降伏、処刑された。

 
 「下仁田での戦争の様子」
 (3)天狗党の行軍が、一ノ宮(現:富岡市一ノ宮)に入ると、幕命を受けた高崎藩は藩兵3隊320人余りの追撃隊を下仁田に向かわせ、先回りし下仁田の先の下小坂に本陣を構えた。
  元治元年(1864年)11月16日未明、両軍の砲声が山々にこだまし、天狗党920余名と高崎藩の2隊により『下仁田戦争』がはじまった。
  戦いは一進一退であったが、天狗党の三面奇襲が勝敗を分け、高崎藩は敗れ、残兵は中山道で高崎に敗走した。

 高崎藩本陣付近での激戦は午前4時から6時頃まで続いた。
 この戦いで高崎藩は36名、天狗党4人の戦死者を出した。
 深手を負い捕えられた高崎藩士は青岩河原で処刑され、翌日、戦死者と共に遺族に引き取られた。
 また天狗党の戦死者は村内の寺に厚く葬られ、重傷者の中には信州への峠を越えて絶命した者もあった。
 

下の案内看板は、下仁田町ふるさとセンター内に立てられています。

下は、ふるさとセンターから長野方向を眺めた写真です。
ふるさとセンターからは、高崎藩の本陣になった里見家と、下仁田戦争の激戦地であった里見家の周辺をはじめ、遠くに安導寺合戦が行われた方面を眺めることができます。
里見家の近くにある「高崎藩士戦死之碑」です。
この碑に刻まれた文字は、勝海舟によるものです。

天狗党の乱については、

      をご覧ください。

   【和暦と西暦について】

和暦と西暦が併記されている看板やパンフレットが用意されているところもありますが、なんのことわりもなく、江戸時代の年表が和暦のまま、というところも多く見受けられます。


わが国は、明治5年(1872122日の翌日が明治6年(1873)11日(グレゴリオ暦の187311日)になりました

 
が、それまでは和暦でした。
 
明治5年12月2日までが和暦で、明治6年1月1日以降が西暦(グレゴリウス暦)という切り替え時期を知っていればよいのですが、これを多くの方が知っているとは限りません。
 
たとえば、下仁田町のHPで、 下仁田戦争が起こった日を、
 
   元治元年(1864年)11月16日   ← 元号(西暦年)となっていて、月日は、和暦のまま。
 
と書いていますが、元治元年を西暦表記にするのであれば、和暦の11月16日も西暦表記にすべきではないかと、私は思うのです。
 
   元治元年11月16日(1864年12月14日)
 
と記載しておけば、高校生などが日本史と西洋史を考える際、とても役に立つ表記ではないかと思います。
 
とかく日本史をはじめとして、社会科関連の教科は、子どもたちにあまり人気がないと聞いていますが、年代の表示などをはじめとして、世界の歴史との比較などをさせたりすることによって、子どもたちが歴史に大きな関心を持つようになるのではないでしょうか。
 
それと、もうひとつ、和暦を西暦の月日と同じ季節感で把握してしまいますと、大きな誤解が生まれるおそれもあります。 
ここで紹介した下仁田戦争の場合、11月中旬と12月中旬では、かなり気温や日の出と日没の時刻、風の冷たさなどが違ってきます。
11月中旬といえば、寒くなってきたとはいえ、まだまだ秋(晩秋?)の感じがしますが、12月中旬となれば、真冬の感じがするのではないでしょうか。

下仁田戦争に関する年表のすべてで、

   元治元年11月16日(1864年12月14日)
 
と表記すれば、 
 
『天狗党の多くの人々は、12月中旬に野宿同然
 (武田耕雲斎らの幹部は、宿などに泊まったようですが、その他大勢は、軒先などで眠ったとのこと)で、
  寒い時季に京都に向かっていたのか、たいへんなことであっただろうな・・・』
 
と、天狗党の人々の苦労について、もっと正しく想うことができるのではないでしょうか。
 
ちょっと余分なことを書いてしまったかもしれませんが、
 
天狗党の面々は、

 下仁田戦争のあと本宿に向かい、当時の名主宅(現在の神戸金貴さん宅)に武田耕雲斉らが泊まり、

   京都をめざして長野へと向かって行くのですが、
   その先で待ち受けていたのは、たいへんな結末-まさに悲劇といってよいもの-でした。

  来年の2014年は、1864年から150年。
  下仁田町で「全国ねぎサミット」が開催される年でもあり、
  こんにゃくを通じての縁-乾燥技術の導入-も深い茨城県との縁をさらに深めるため、
  下仁田町が天狗党・高崎藩の関係者を招いて、
  150年の記念慰霊祭を開催する、というのはいかがでしょうか。

話しは脱線しますが、こんにゃくで財をなした商人が水戸浪士のスポンサーになって、桜田門外の変が起きた、ともいわれいます。

天狗党の面々が斬首されることになったとき、幕府がいくつかの藩に「天狗党の者を斬首せよ」と命じたのですが、命じられた藩は、「憂国の士を斬ることはできない」などと拒否したのですが、
「わが藩が引き受けます」と名のり出た藩がありました。
それが、彦根藩でした。

彦根藩としては、桜田門外の変の仕返し、といったことであったのでしょうね。
 
天狗党の幹部が宿泊した本宿の神戸金貴さん宅は、
のちほどご紹介させていただく予定です。