2018年5月28日月曜日

「没後150年 功績しのぶ」+姉妹観音悲話

「東善寺で小栗まつり」

きょうのブログのタイトルは、上毛新聞の見出しからお借りしました。
東善寺がある高崎市倉渕町の出身者もお亡くなりになっています。
小栗上野介が権田村(当時)の人々に慕われていたという話がたくさん残っています。
群馬県で暮らしている方は、高崎市倉渕町と館林市の距離をご存知ですが、権田村(当時)の住民が館林の法輪寺から首級を奪い取って、権田村(当時)へ運んできたというのです。
自分がどのような目にあうかもしれない、そんな心配があるなか、ご遺体をひとつの場所への思いで、こういった行動をしたのでしょう。
これは、小栗上野介が村の人々に慕われていたということ、その証ともいえるできごとであったといえるでしょう。
だからこそ150年もたっていながら、こうして小栗まつりには、多くの方々がおまいりに訪れるのでしょうね。
今夜は、姉妹観音を紹介しようと考えていたのですが、3歳と5歳の幼い女の子も殺されてしまったこと、その哀れさを思い、とても悲しくなってきてしまいました。
幼い姉妹も殺されるという、ほんとうに悲しい、やるせないできごともあったのです。
これについては、のちほど・・・
申し訳ありません。
今夜は、これ以上書くことができません。

と、昨夜(2018.5.28の夜)にブログを書いたところですが、これから姉妹観音にまつわる悲しいお話を紹介いたします。
もともと涙腺がしっかりしていないのですが、ここ最近は、とみに涙腺がゆるんできたしまったのか、すぐに涙が出てきてしまいます。
幼い子が犠牲になったという事件がニュースで放送されますと、とても悲しい気持ちになります。
小栗家の用人塚本真彦の家族も犠牲になりました。
姉妹観音由来にあるとおり、七日市藩の知り合いを頼って、権田村(当時)から現在の富岡市七日市に向かう途中、3歳と5歳の女の子が「殉難し 相間川の渕に沈められた 時に慶応四年四月七日」という悲しい、たいへんいたましいことが起きました。
    ※ 慶応四年四月七日→1868年 4月 29日 
姉妹観音の下を流れる相間川です。
当時の時代状況、時代の空気を考えるとき、いまの時代に生きる者が軽々に感想を述べるべきでないかもしれませんが、幼い子まで巻き込まなくてもよかったのではないかと・・・あまりにも悲しいできごとであったのではないかと思います。
いまでも幼い子が被害にあったり、犠牲になる紛争や事件が起きています。
こういった悲しい事件がない社会であってほしいと思っています。
姉妹観音までの道路は狭いため、気をつけてお出かけになってください。
また、姉妹観音への降り口は通行止めになっていますが、鎮魂句碑のほうから姉妹観音に行くことができます。
小栗上野介の最期とともに、こういった犠牲があったことも覚えておきたいものだと思っています。
※ この記事は、2日にかけて作成しました。

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