時を知る~過去・現在・未来~
下仁田町自然史館の玄関上にある時計は、針が取り除かれ、時刻表示(文字盤)が残されています。
撮影:2015.9.28(月) |
撮影:2013.11.15(金) 14:20 |
時計の針が15:02ころをさしていますが、このころにはきちんと時を刻んでいなかったことになります。
私は、駅をはじめ公共施設にある時計は、かならず正確に時を刻んでいるべきだと考えています。
不正確な時を知らせる時計であれば、生活に混乱をきたすことになるからです。
いまは、個人が腕時計やスマホなど、時刻を知る道具に事欠きませんが、かつて時刻を知るということは、たいへんなことでした。
ご存知のように、不定時法を採用していた時代にあっては、日の出から日没までの間を区切って、それを一時(いっとき)としていました。
明治になって、鉄道を走らせるとき、この不定時法では、鉄道ダイヤがうまく組めないこともあってか、定時法に移行するのですが、そのときから日本人は、時刻を正確に知って、その時刻に従って、行動するというパターンを身につけてきました。
私は、駅や公共施設の大きな時計を見るたび、昔の人々は、この時計を見て、時刻を知る以上のものを感じていたのではないかと思っています。
それは、時刻を知る、その向こうに、
過去 むかし
現在 いま
未来 これから
があることを身近に感じるようになったのではないかと思っています。
もちろん、不定時法の時代も過去や現在がわからないわけではありませんが、それは厳密な意味での時の把握といえないものであったのではないでしょうか。
時計は、たんに時刻を知る道具ではなく、この時代にあって、自分の立ち位置を明らかにする道具でもあるのです。
いまは小学生が通学することがなく、不要になった時計とはいえ、壊れた時計を見るたびに悲しい気持ちになります。
それは、たんに壊れた時計をそのまま(動かなくなった針を取り除きましたが)にしておくという
だらしない感じ
を受ける以上に、
時というものに対しての無頓着さがあるのではないか・・・
という感じを受けます。
時計は、
時刻を知る以上に意味のある記号ではないか、
そんな思いがしています。
つまり、壊れた時計を見ていると、
壊れた時計をそのままにしておくということは、
過去のこと、歴史や文化を大切にしたり、
現在の置かれている状況をきちんと把握し、
これから先の未来をどのように切り開いていくかを考える
といったことをしないのではないかと私には思えてくるのです。
壊れた時計が動き出し、
きちんと時を刻むようになったとき、
人々の意識も変わってくるかもしれません。
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