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2018年6月18日月曜日

戸谷半兵衞

地域のために尽くす

以前に紹介(↓)

「中山道&下仁田道の旅」がいいかも・・・ 
   道の駅しもにた+道の駅オアシスなんもく

した「中山道の旅2018版」の16頁に、
  大光寺と見透燈籠
という見出しの記事(↓)があります。

(大光寺には)かつて神流川の渡し場にあった見透燈籠があります。この燈籠は、文化12年本庄宿の戸谷半兵衛が寄進したもので、正面には大窪誌仏による「常夜灯」と桑原北林による「金毘羅大権現」の文字が、右側面には「燈に背かざりせば闇路にも迷いわせまじ行くも帰りも」と田口秋因の和歌が刻まれています。

いまは、大光寺にある見透燈籠ですが、かつては神流川の渡し場にあり、旅人の目印になっていました。
いま、ふるさとの歴史と文化を学ぶ会の一員として、中山道から本庄宿で分岐し、藤岡・吉井・富岡・一宮・下仁田を経て、信州岩村田につながっている脇往還・下仁田道(このほかにも追分街道とか富岡街道など、むかしの文書を見ていますと、いろいろに表記されています)を調べているのですが、その一環として、舟運、渡し場の位置なども調べています。 
渡し場の燈籠「常夜灯」は、いまでも海にある灯台と同じ役割をしていたもので、江戸時代の旅人や舟運に携わる人々には、たいへんありがたいものであったことでしょう。
また、本庄宿の戸谷半兵衛は、手広く商いをされていたようですので、安全確実な物資の輸送や人の移動は、重大な関心事であったということも想像できますが、ビジネスで儲けたお金は、地域のために役立てるといった気持ちがあって、渡し場に燈籠を立てることにしたと考えてよいと思います。
江戸時代の旅、物資の輸送などは、現代のわれわれには想像できない困難と危険がありました。
舟運にしても船が沈んでしまったり、陸路の輸送では、人や馬が崖から落ちるとか、さまざまな事故も発生していました。
この燈籠に「金毘羅大権現」の文字も刻まれているのは、安全な舟運を祈っているからにほかありません。
関東の河川には、舟運の安全を祈願する神として、大杉神社の神と金毘羅大権現がありますが、これは舟運の安全を祈願するために広まったといわれています。
この常夜灯に刻まれている「燈に背かざりせば闇路にも迷いわせまじ行くも帰りも」 は、この燈籠を寄付した戸谷半兵衞の思いをあらわしたものであったかもしれません。
たまたま見つけたのですが、本庄市にある金鑚(かなさな)神社の手水舎の水盤に戸谷半兵衞の名前が刻まれていました。
世話人の3名中、いちばん左に戸谷半兵衛の名前が刻まれていますので、この3名のなかでは、いわば若輩者といった立場であったかもしれません。
この水盤に刻まれている享和3年は1803年であり、見透燈籠に刻まれている文化12年は1815年ですので、この間にビジネスがうまくいき、戸谷半兵衛は本庄宿で押しも押されもせぬ立場になり、独力で見透燈籠を立てることができたのかもしれません。
戸谷半兵衞は、200年以上もあとの時代に、このようなことをブログに書かれようとは、まったく想像だにしなかったことでしょう。
おそらく当時の人々は、自らの名を後世に残そうとか、商売をうまく進めるための宣伝であるというような考えをしなかったと私は考えています。
地域のために尽くしたい、という思いもあって、ビジネスに本気で取り組んだと思うのです。
また、こうした行為が自分だけでなく地域全体の利益になり、みんなが豊かに暮らせるもとになる、といったビジネスの哲学をしっかりもっていたからこそ、渡し場に見透燈籠を立て、金鑚神社に水盤を寄進する世話人にもなったのでしょう。
寄付をされた方が名を残そうとしたいと思っていなくても、地域の発展や安全な暮らしを守っていくために尽力していただいた方の名を後世に残せる石などに刻んでおくことは、とても大切なことかもしれません。

このブログは、最近ある団体の役員をされいる方から「団体に寄付していただけるという方がいて、どのようなものが寄付していただいた方のお気持ちにそえるだろうかと検討している」とお聞きしましたが、寄付をしていただく方のお気持ちを後世の人々(この団体の場合であれば、これからの会員、役員、関係者)によく伝わるための工夫も必要ではないかな、ということをよくお考えになったほうがよいように私は思います。

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