2018年6月26日火曜日

何やかやとねだられて二百両

碓氷関所の門扉を残した後閑丹造

いま、江戸時代の道路や人々の移動(旅)などを調べているのですが、上毛新聞の「三山春秋」に興味深い記事が掲載(↓)されていました。
 この記事で紹介している
  「近世関所の基礎的研究(五十嵐富夫著)」
を地元の図書館を通じて、群馬県立図書館から借り、読んでみたところ、たいへんなお金をかけて、碓氷関所の門扉を残した人物がいたことを知りました。
その人物とは、碓氷関所の同心であった後閑丹造で、門扉一枚を残すために二百両もの大金をつかったというのです。
 久しぶりに分厚い本を読みました。
 この本によれば、門扉保存の経緯は、つぎのとおりです。

関所建物を焼却する際、その補佐役を命じられた後閑丹造は、勤めていた関所の建造物のなかで、どれか一つでも残せたらとの思いで、上役に袖の下二十両を渡して願い出たところ、
  扉一枚くらいは内緒で保存するのもよかろう
との内諾を得ました。
これを知ったほかの役人が、
  それは承知できない
と言い出したので、これらの役人には全部で五十両を渡し、
  やっと決着
したのでしたが・・・
やっとの思いで、門扉をひそかに後閑丹造が運び出したあと、このことを知っている同役や下役らに、
  何やかやと酒代をねだられて、
けっきょく後閑丹造は、門扉一枚に二百両もの大金をつかうはめになったというのです。

たいへんな思いをして後閑丹造が親せきなどの協力を得て残した門扉は、いまは復元された碓氷関所で見ることができます。
 また、焼却しているときに出して、焼却をまぬがれたという門柱も復元されています。
上毛新聞の「三山春秋(2018.6.3)」では、「近世関所の基礎的研究(五十嵐富夫著)」において、門柱、門扉、屋根材などを隠していたとなっていますが、この本の89頁から92頁で記述されているのは、後閑丹造が残した大扉(門扉)のみです。
また、碓氷関所の資料館を見学した際、残されていたのは門扉と門柱であったとのことで、屋根材が残されていたのかどうか・・・、この点と門柱を火のなかから救い出したのは誰であったかは、これからの私の調査課題です。

なんとか後世に関所の一部を残そうとした後閑丹造と親せきらは、江戸から明治に切り替わる激動期にあって、たいへん勇気がある行動をしたといえるでしょう。

後閑
丹造に袖の下や酒代を要求した上役などは、当時の記録文書に名前が記載されていないからいいものの、もし名前が記載されていれば、子孫は恥ずかしい思いをすることになったかもしれませんね。←これは、まったくの余分ごとです。

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