武田信玄がとおった下仁田
来年のNHK大河ドラマが、真田信繁(幸村)を主人公にした「真田丸」とのことで、群馬県の沼田市など、真田氏にゆかりのある自治体では、NHK大河ドラマ人気にあやかって、観光客を増やそうと努力しているようですが、はたしてうまくいくだろうか・・・、と私は思っています。
群馬県には、歴史上の人物として、大河ドラマの主人公になれるほどの大物がいなかったのか、これまでに群馬県が舞台になって、主人公らが華々しく活躍するドラマというのを私は知りません。
たとえば、武田信玄の場合、箕輪城の攻略で苦戦したことが有名ですが、これがドラマに描かれたことがあるのかどうか・・・。
日本百名城-箕輪城
春風に うめも桜も 散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里
http://geogunma.blogspot.jp/2015/03/blog-post_7.html |
以前、このブログ記事(↑)で、下仁田における武田信玄のことを紹介したいと述べましたが、武田信玄が西上州に来るときは、下仁田をを必ずとおり、下仁田で騎馬隊などの調練が行われたと伝わっています。
いまは、竹林になっていて、武田信玄の騎馬隊が馬を駆って、疾駆していたようすをしのぶことができませんが、ここで訓練をして、箕輪城方面に向かって行ったことでしょう。
ここは、骨立山(こったてやま)のふもと、下仁田町の赤津地区になります。
馬山地区側から眺めた骨立山(こったてやま)です。
「武田騎馬隊 鉄砲馬場跡」は、この画像の右のほうにあります。
(この画像には、写っていません)
→の先が骨立山の山頂になります。
山頂からの眺めです。
この山頂から武田信玄の軍勢は、箕輪城をはじめ、支城の動きなどをここから見ていたと、地元の古老にお聞きしたことがあります。
下仁田ジオパークのジオサイトのひとつである馬山丘陵が見渡せる場所として、この山頂は最高の場所であるのですが、武田信玄の軍勢にとっては、ここの河岸段丘には目もくれず(であったと思います)に、これから攻略に向かう箕輪城をはじめ、支城の動きなどをここから見ていたことでしょう。
部下に任せっきりということでなく、山頂に腰を下ろして、箕輪城や国峰城などを眺めていた武田信玄の姿があったかもしれません。
ここまでブログ記事を書いてきて、ふと思いつきました。
西上州攻略での武田信玄がドラマで描かれないのは、箕輪城の長野業政らの奮戦によって、武田信玄があまりにも苦戦したので、それを描かないでほしいという信玄ファンの思いに応えてのことかもしれないと・・・。
これは、あくまでも箕輪城の長野業政らの奮戦、そのすばらしさに感動している私の勝手な空想ですので、信玄ファンの皆様にはお気を悪くなさらないよう、くれぐれもよろしくお願い申し上げます。
そして、冒頭に述べた「真田丸」放送による群馬県内での自治体の思惑どおりにいくかどうかですが、どうも群馬県自体が脇役にもなれないような、そんな感じがしないでもありません。
当たり前のことですが、真田信繁は当時の群馬県で、華々しく活躍したわけではありませんから・・・。
とても残念なことですけれど、これが戦国時代の群馬県の実態でしょうか・・・。
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