2017年5月15日月曜日

中二子古墳【前橋市・大室公園】の埴輪

本郷埴輪窯【藤岡市】

以前、つぎのブログ(↓)


「今から1500年ほど前の古墳時代、群馬はとても元気でした。」
http://ameblo.jp/7568nanjai/entry-12274211189.html

で、
  群馬の古墳を歩く (みやま文庫)
を紹介しましたが、その12頁には、たいへん興味深い(私にとって)記述があります。

 中二子古墳の埴輪のうち30%には、粘土に含まれる海綿骨針化石と埴輪製作時に割れるのを防ぐために混入する結晶片岩砂粒が含まれていた。この特徴は藤岡地域で生産される埴輪に限られたものである。藤岡には本郷埴輪窯や猿田埴輪窯があることから、中二子古墳の埴輪の一部はこれらの窯で生産されたことがわかった。
 築造時期は、出土した埴輪や土器の型式から6世紀前半であることが推定される。
   群馬の古墳を歩く (12頁) から引用

中二子古墳【大室公園】については、つぎのブログ(↓)

前二子古墳・中二子古墳・後二子古墳 大室公園 (群馬県前橋市)
http://geogunma.blogspot.jp/2017/05/blog-post_13.html

をご覧ください。

私が興味深いと感じたのは、6世紀前半において、本郷埴輪窯への埴輪の発注や本郷埴輪窯から中二子古墳への輸送など、いったいどういうふうにやっていたのだろうか、ということでした。
といいますのは本郷埴輪窯から中二子古墳まで、直線距離で20kmもあって、全体的に平坦な地形ですが、利根川などを渡っていかなければなりません。
いまであれば電話やネットなどで、発注に関する仕様などの連絡がとれたり、できあがった製品をトラックで運ぶこともできますが、大きな埴輪ともなれば、それなりの重さがあります。
古墳をつくる際に大きな石などは、修羅という橇のようなもので運んでいたそうですが、そういった道具を使ったのか、それとも担いだりして、本郷埴輪窯から中二子古墳まで埴輪を運んだのか、どのようにして運んでいったのか、とても興味があります。
復元された中二子古墳の埴輪です。
当時の群馬において、古墳がたくさん築造されていたとき、埴輪の製造技術において、 本郷埴輪窯をはじめとして、現在の藤岡にあった埴輪窯は、とても有名であったのかもしれません。
当時の藤岡は埴輪の一大生産基地といったところであり、あちこちの豪族から注文が寄せられ、たいそう発展していたのでしょう。
本郷あたりには焼き物に適した良質な粘土があったこと、これがいちばん重要なところですが、その地の利を活かして、埴輪製造の技術を高め、のちには瓦製造が盛んなまちとして、大きく発展する藤岡の礎になった、それが本郷埴輪窯などになるのではないでしょうか。
そして藤岡には、とてもおいしいと評判の
  名物藤岡瓦せんべい(虎屋本店)
があります。

6世紀前半に藤岡から前橋まで埴輪を運んだ人々は、重いものを運んだわけであり、たいへんなことであったろうなと、そんなことも想像しながら
  群馬の古墳を歩く (みやま文庫)
を読んでは、つぎはどこの古墳に行こうかなと思案しているところです。

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