2016年6月30日木曜日

糸繭商・蚕種商

むかしの富岡町と下仁田町

みやま文庫の「群馬県営業便覧」を見ますと、明治期における群馬県内の商店街・まちなみのようすがよくわかります。
明治37(1904)年に発行された「群馬県営業便覧」をみやま文庫で復刻したもので、上下巻2冊に分かれています。
その下巻に、むかしの富岡町と下仁田町が掲載されています。
黄色い矢印の先の
 セイシバ
は、旧富岡製糸場です。
私たちの時代には、
 カタクラ
と呼んでいましたが、お年寄りのなかには
 セイシバ
と呼んでいる方もいたようでした。
おそらく、この営業便覧では、略図に小さく表記しなければならないという制約もあったとは思いますが、当時の人々が呼んでいた
 セイシバ
と記載したのでしょう。
黄色い丸印を付したのは、蚕種と糸繭を扱っている方々です。
現在の富岡市内の地理に詳しい方であれば、ここがどのあたりかおわかりになるのではないでしょうか。
この時代、糸繭商が多かったことがわかりますが、それは当地での養蚕が盛んであったればこそのことといえるでしょう。
私の同級生のなかには、祖父の代まで糸繭商であったというものもいましたし、私が子どものときには、まだまだ糸繭商は、富岡市内に何軒もあったように記憶しています。
こちらは、下仁田町のまちなみです。
下仁田町のようすをご存知の方であれば、富岡警察署下仁田分署や粉蒟蒻販売 櫻井朝雄といった表記を見て、あそこあたりだなとおわかりになるかと思います。
明治37(1904)年の営業便覧を見ていますと、その当時の商売や職業がわかって、たいへんおもしろいものだと思います。

以前のブログ(↓)

まちなみの変わりよう-富岡製糸場周辺
不思議なまちなみになってきたような・・・
http://geogunma.blogspot.jp/2015/06/blog-post_16.html

で、まちなみの変化のことを述べましたが、明治のころの商店街・まちなみと現代の状況を比べるとき、当たり前のことかもしれませんが、時代とともに変化していくものだということを改めてつよく感じます。
これは、「諸国道中商人鑑」という文政10(1827)年に発行されたもので、みやま文庫での復刻版から引用しました。
上州冨岡(ここでの富岡は、冨岡となっています)には、
 蚕種商人衆定宿の丸屋
という宿が紹介されています。
蚕種を扱う商人にしてみれば、この丸屋に宿泊すれば、同業者との情報交換ができる、そんなメリットもあって、大いに繁盛した宿であったかもしれません。
下仁田町には、
 蒟蒻玉
を商う店もありました。
コンニャクいもを乾燥して、粉にするという技術が下仁田に伝わっていなかった時代、コンニャクいもをなまのままで販売していたのでしょう。

これらの資料からは、江戸から明治にかけての富岡町と下仁田町は、とても賑わっていたことを思わせてくれます。
人口減少と過疎化といった現代の状況と比べてみるとき、私は隔世の感以上の不思議な思いがします。

来年、再来年・・・、さらに5年後、10年後と、これから先、どんなまちなみに変わっていくのでしょうか。

0 件のコメント: