そもそも富岡製糸場とは・・・?
先日、お会いした方々と話していたとき、富岡製糸場や荒船風穴の歴史などが話題になりました。
Aさん: お富ちゃんのイメージは、官営時代の富岡製糸場の女工さんなんでしょう?
私: 富岡市のHPでは、そのように書かれていないけれど、
官営富岡製糸場時代の女工さん、そのイメージだと多くの方が思うのではないでしょうか。
Aさん: 荒船風穴と富岡製糸場の関係は、どういうものなの?
私: 富岡製糸場を官営時代の富岡製糸場という意味でお考えであれば、
富岡製糸場と荒船風穴は、まったく関係ないということになるでしょうね。
荒船風穴が操業を開始した1905(明治38)年には、もう官営富岡製糸場はありませんでしたから。
Bさん: 富岡製糸場を紹介しているパンフレットには、高山社や田島弥平との関係も含めて、
富岡製糸場と関係があると書いてあったよ。
私: そうですね。パンフレットの場合、厳密に富岡製糸場という名称でなく、
その後の変遷をひとくくりにして、文化財としての呼び名として、富岡製糸場と表記しているのでしょう。
これらのパンフレットによるPR効果(?)もあって、
よっつの構成資産が同時進行的に関連しあって、養蚕・製糸業を盛んにしたイメージを
持たれている方々が多いように感じます。
富岡製糸場の場合、1872(明治5)年に官営富岡製糸場として、操業を開始するのですが、
1876(明治9)年9月に富岡製糸場を富岡製糸所に変更します。
富岡製糸場と称していた時代は、ほんとうに短い間のことで、
それも官営時代の最初のときだけです。
1893(明治26)年10月に三井銀行(三井家)に払い下げるまでの官営時代の多くが、
富岡製糸所であったことになりますし、三井のときも原合名に経営が移ったあとも
富岡製糸所と称していました。
1938(昭和13)年7月には、原が片倉製糸紡績㈱の協力を得て、㈱富岡製糸所を設立します。
そのあと、1939(昭和14)年9月に片倉工業の経営となり、片倉工業富岡製糸所となります。
A・Bさん: 時代区分と変遷をしっかり説明しなければ、官営の富岡製糸場・富岡製糸所時代から
民営になったあとの富岡製糸所、片倉工業㈱時代の富岡工場まで全部が一緒くたになって、
これから先、どのような富岡製糸場というイメージになるか心配だね。
歴史上の呼称に関しては、可能な限り正確に表記することが大切なことだと思うのです。
2015.8.16(日) 上毛新聞 |
といったことを聞いたことがありましたが、
私が子どものとき、多くのおとなは〝製糸工場(せいしこうば)〟とか〝製糸場(せいしば)〟と呼ばず、親しみをこめて、〝片倉(かたくら)〟と呼んでいたように記憶しています。
この記事の場合、担任から「片倉に行く」というところについて、片倉(富岡製糸場)でなく片倉(旧富岡製糸場)としたほうがよいのではないかと私は思います。
世界文化遺産登録後、いまや富岡製糸場という呼び方は、文化財としての富岡製糸場という意味だと多くの方々は理解しているのでしょうけれど、たんに富岡製糸場となりますと、官営時代の富岡製糸場と混同する、そういった方々もいらっしゃるのではないでしょうか。
つまり、明治期の操業開始から富岡製糸所と名称変更するまでは旧官営富岡製糸場として、富岡製糸所と名称変更後は、官営から民営それぞれの経営主体の違いを明記するなど、表記を統一したほうがよいのではないかという思いがします。
つまり、旧富岡製糸場というときは、官営期から現在にいたるまでの時代、残された建物全体をもいう総称として、それぞれの時代区分でいうときは、それぞれの時代区分での名称で表記するのがよいように思います。
そうすれば、旧富岡製糸場に来られた方々が、
あら、明治時代の富岡製糸場のものが少なくて、たいへん残念ね
といった感想を持たれることがないのではないかと、そんなふうに思うのですが・・・。
やるなら徹底的に! 中途半端なことは やめたほうがよいのでは?
http://geogunma.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html |
たかが名称、表記のことでありますが、名は体を表すのたとえどおり、どのように呼ぶのかは大事なことではないでしょうか。
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