2015年8月12日水曜日

2060年-これから45年後

いったいどんな時代になっているのだろう?


ある会議での会議資料に、いくつかの想定値を変えての人口推計結果のひとつとして、
 平成72年(2060年)に出生率が2.10に上昇、社会的均衡を維持(転出=転入)
するという推計がありました。

この会議資料では、上記の推計結果を述べた後、

 現状の出生率が1.30であることを踏まえるとき、自然増の目安となる出生率2.10にまで上昇させることは困難であると考えられるが、一定の人口規模を維持していくためには、自然増に転じる必要があり、そのためには出生率を2.10以上に上昇させなければならない。
 このため、
  1 定住促進などの施策によって、転出を抑制することにより、社会的均衡を維持する。
  2 子育て支援施策によって、出生率を段階的に上昇させることにより、自然増減の均衡、さらには自然増加をめざす。

と述べているのですが、私には雲をつかむような話といえばよいのか、あまりにも漠然としすぎていて、まったく実感がわかず、ましてやなるほど!と納得できるものではない会議資料でした。

それは、まもなく人生が終わる私にとって、2060年という45年後の未来を自分ごととして、考えることができないということもありますが、

 いまの時代状況を考えるとき、
 いま、このとき、そして来年、再来年・・・、5年後といった近い未来をよく考えたうえで、
 早急に適切な施策を講じていくことが大切なことであり、
 
45年後という遠い未来のことをいわれて、多くの住民が理解できるものなのか、と思うのです。

それと、もうひとつは、政府や自治体が公表する将来推計には、だれもが納得する正しい前提と想定があるべきであり、その前提と想定をふまえて、実施される施策が適切なもの-実施目的や内容、事業効果、財源措置などが明確になっていること--でなくてはいけないと思うのです。

ことしは、敗戦後70年ということで、太平洋戦争に関する話題が多く報じられていますが、日本がアメリカに宣戦布告をしたとき、日本はアメリカの戦力や国力を正確に評価していたかといえば、これを過小評価し、自国の戦力や国力を過大評価して、だから勝てる、といった根拠のない予測のもと、多くのひとびとの命を奪い、国土を焼き尽くす大惨事のもとになったことは、よく知られているところです。

日本が対米戦争へ進もうという空気のなかにあって、アメリカと戦って、日本が勝てるわけがない、と考えていた人物もいたようですが、そういったことを発言しようものなら「弱虫め!国賊だ」「たたっ切る!」といった威勢のよい勢力に攻撃されるため、ほんとうのことがいえなかったともいわれています。

次元の違うことを例にひいたかもしれませんが、政府や自治体の推計、予測については、予断を排して、また、ときの政府や自治体の都合のよいようにつくることなく、つねに正確なものであるべきだと思います。

政府の誤った推計や予測に基づいた判断で開戦した太平洋戦争は、結局は破たんへと向かい、挙句のはてには、
 弾がなければ、体当たりをせよ!
 大和魂で敵を打ち破れ!
などといった無謀なことを繰り返し、最後は玉砕、特攻機・・・という悲惨な事態となったことは、私たち日本人が忘れてはいけない〝日本人の失敗〟であったといえるのではないでしょうか。

あるひとは、こどもの成長への期待になぞらえて、推計の数値が高い(大きい)ほうがいいじゃないかといいますが、それが根拠をはじめとして、その数値を達成するためのプロセスが明らかになっていればよいですが、そうでないときは、必ずしも推計の数値が高い(大きい)ほうがよいとはいえないのではないでしょうか。

政府や自治体などの行政が公表する推計(予測)は、小さな男の子が父親に対して、
 「ぼく、大きくなったら宇宙飛行士になりたいんだ」というレベルではないのです。

宇宙飛行士になりたいという息子に対して、父親は
 「おっ、○○は、宇宙飛行士になりたいのか、がんばれ」と激励するでしょうし、大きな夢をもつ息子を頼もしく思うことでしょう。

そして、○○くんが宇宙飛行士になり、小さいときの夢を果たしたとしても、残念ながら夢のまま終わったとしても、私たちの生活には、なんの影響もありませんが、行政による根拠がよくわからない将来推計の数値は、小さな男の子の大きな夢と違い、その結果が私たちの生活に大きく影響することを認識しなければなりません。

行政の将来推計には、きちんとした根拠を示し、その想定をうまくいかないときに想定外などと言い訳することなく、きちんとやりとげる適切な施策を講じていく責任があると私は思うのです。

私が知る限りでは、多くの自治体が総合計画や○○ビジョンなどといった将来計画を立てますが、その多くが計画倒れになっています。
それは、計画づくりの作業そのものが目的と化してしまい、きちんとした根拠もなく、威勢のよいことばで、バラ色の未来を描くことにまい進した結果といえるかもしれません。

  ○○のためには、○○の必要があり、そのためには○○を○○しなければならない。
と書かれている資料は、
 もはやきちんとした推計に基づくものでなく、こうしたいという結論ありきのもの
と考えてよいかもしれません。

厳しい現実を見つめることは、だれしもがつらいことでありますが、その厳しい現実をよく認識したうえで、適切な将来像を描くべきではないかと、そんなことをつらつら考えています。
撮影:2014.12.7(日) 東京・新宿
私は、映像で70年前の東京-空襲による焼野原-を知っているだけですが、70年前の人々が45年後の東京の姿、70年後の東京の姿を想像しえたでしょうか。
おそらく70年前に、45年後、70年後の姿を正しく予測できた方は、いなかったのではないでしょうか。

将来を予測することは、とても難しいことであり、簡単にできることではありません。
行政が公表する将来推計などについては、その根拠や想定、施策などを、住民はよくみるべきだと思っています。

敗戦後70年の夏、セミの鳴き声をききながら、これからの日本は、どのように進んでいくのだろうか、と思っています。

そして、2060年-これから45年後-には、人々はどのような暮らしをしているのだろうか・・・と、思いをめぐらしています。
撮影:2013.11.16(土) ほたる山公園からの眺め[下仁田]
私の場合、45年後には、この世にいないと思っていますので、45年後の将来推計が正しいものであったかどうか、正しくないものであったかどうかを確認できないことが、とても残念なことでありますし、この風景が45年後にはどのようになっているのか眺めることができないことも残念なことです。

45年後、
日本は、私たちの暮らすまちは、私たちは、
どのようになっているでしょうか・・・?

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