間違った情報があるのでは・・・・・?
最近、新聞の記事を読んだり、テレビの特集番組などを視聴していて、
① 富岡製糸場は、鏑川があって、そこから製糸に必要な水を引いて、創立時から操業していた。
② 所有者である片倉工業が、建物などを適切に維持管理をしてきたため、いまにしっかりと建物が保存されている。
といったことを読んだり、耳にすることがあります。
どこからこのような情報を得て、記事を書かれたり、テレビ番組を制作されているのだろうかと、私は、はなはだ心もとない感じがしています。
まず、
① 富岡製糸場は、鏑川があって、そこから製糸に必要な水を引いて、創立時から操業していた。
ですが、「富岡製糸場誌」には、つぎのとおり記述されています。
「水利は不便であるが七日市から引いている用水の三分の一も使用すればことたりること」
と述べられ、さらには、
万一、この用水が使用できないときは、堀井戸で間に合わせる
とも述べていて、
鏑川の水を引く、ということは述べられていません。
そもそも当時の技術水準などを考えてみても、高台にある富岡製糸場に低いところを流れている鏑川の水を汲み上げる、あるいは引き込むといったことができるはずがありませんでした。
ちなみに、鏑川の水が富岡の台地を流れ、田畑を潤すようになったのは、終戦後も終戦後、ごく最近のことであり、いま、甘楽多野用水土地改良区が管理している用水施設が完成したあと、ということになります。
「富岡製糸場誌」は、1977(昭和52)年に発行されたもので、いまでは図書館等で閲覧できるぐらいになっていますが、こうした本を読まれたうえで、新聞記事を書かれたり、テレビ番組を制作していただければ、間違ったことを伝えることもないと思われますので、ぜひ史料などを読み込んでいただいたうえで、新聞記事を書いていただき、またテレビ番組を制作していただきたいものです。
2014.6.10 上毛新聞 |
つぎの
② 所有者である片倉工業が、建物などを適切に維持管理をしてきたため、いまにしっかりと建物が保存されている。
ですが、まずは、つぎの画像をご覧ください。
これらの写真は、「旧富岡製糸場建造物群調査報告書」に掲載されているものです。
富岡工場の操業停止後において、片倉工業は、建物などの維持・保全について、精一杯のことをされたと思うのですが、私が申し上げたいことは、木造家屋を維持、保全することが、いかに難しいことであるかということなのです。
多くの人々が、現実の建物の傷みぐあいについて、もっときちんと把握したうえで、これからの維持・保全について、正しい認識を持つようにすべきではないでしょうか。
ところで、「旧富岡製糸場建造物群調査報告書」には、
① 富岡製糸場は、鏑川があって、そこから製糸に必要な水を引いて、創立時から操業していた。
に関連して、つぎのように述べられています。
ところが、別のところには、つぎのように述べられていて、ここだけを読んだ方々は、
やはり鏑川があったからだったのか!!
と納得されてしまうことでしょう。
製糸に必要な用水の確保が容易で、かつ豊富であった、ということは、
「富岡製糸場誌」からも明らかなとおり真実ではありませんし、
官営の時代から片倉工業の時代に至るまで、
水の確保に悩まされながら操業してきたというのが、
真実の姿なのです。
文献での記述はもちろんのこと、いわゆる風評とか世間話というものに関して、
これは、ほんとうなのかな?
と思う気持ちを持つことは、いつでも必要なことではないかと、そんなことを考えるこのごろです。
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