2017年4月27日木曜日

国定忠治の甥

長岡利喜松

いまは「赤城の山も今宵限り」といった名セリフの芝居を知らない方が多いと思いますが、私がこどものときの地区の演芸会で、「名月赤城山」は必ずといってよいほど上演されていたものでした。
「かわいい子分のてめーたちとも別れ別れになる門出だ」といっては、近所のこどもたちと芝居のまねをして遊んでいたころ-私が忠治でした-を思い出す記事(↓)を見つけて、しばらくぶりに国定忠治の墓がある伊勢崎市の養寿寺に行ってきました。
明治時代の道路や鉄道などを調べていますが、その調べ中、群馬県史の資料編19に
  国定忠治の甥
という記事(明治期に発行されていた新聞記事)を読んで、
  長岡利喜松
に興味を持ち、国定忠治がある養寿寺に行けば、長岡利喜松のことを教えていただけると思って、4月の某日、養寿寺に行ってきました。
養寿寺になります。
訪れた4月某日には、まだサクラが咲いていました。
長岡忠治の墓とありますが、国定忠治の墓は、この大きいほうではなく隣にある小さいほう(囲いが見えるかと思いますが、そのなかにあります)になります。
こちらが国定忠治の墓です。
墓石の角が削られて丸くなっていますが、これはギャンブル好きな方たちが〝賭け事のお守り〟にと墓石を削ってしまったからだといわれています。
そんなわけもあって、まわりを囲っているそうですが、〝賭け事のお守り〟に墓石を削るとは、まことに罰当たりなことと私は思うのですが・・・。
養寿寺を訪れた日は法事があるらしく、寺の皆さんがお忙しいようでしたので、庫裏のほうに行きませんでした。
長岡利喜松の人物等に関して、御住職からお話をお聞きできませんでしたが、国定忠治の墓の前にあるひときわ大きな墓石が、長岡利喜松のものだとわかって、おじさんのためにがんばって生きてきた人生がこの大きな墓になっているのかなと思いました。
国定忠治といえば、ちょんまげの時代ということになりますが、明治期から大正期にかけて、おじさんの名誉回復のためにとがんばった長岡利喜松は、こうしておじさんの墓の前にいることに、きっと大満足でいることでしょう。
あっ、そうそう、長岡忠治の墓という大きなものは、長岡利喜松ほかの人々が建てたと、裏面に大きく刻まれています。

国定忠治の甥は、私にはとても興味深い記事でしたので、紹介させていただきました。

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