2013年12月8日日曜日

下仁田戦争

天狗党の西上-幕末の悲劇-

元治(げんじ)元年11月16日の朝、高崎藩の兵と天狗党が下仁田町で戦いました。
これが、下仁田戦争といわれるものです。

下仁田町のHP
            http://www.town.shimonita.lg.jp/kyouiku/m02/m06/02.html
     から引用させていただきますと・・・ 

  「天狗党挙兵と西上の途」
 (2) 水戸藩においては、ペリー来航より、29年前の文政7年(1824年)にイギリスの捕鯨船が薪や水を求めて上陸していた経緯もあり、水戸藩には攘夷論の急先鋒も多く存在した。こうした中、水戸藩において文武両道に優れた数名が『尊王攘夷』を旗印に筑波山に挙兵し、その集団は天狗党と呼ばれる一派であった。
  挙兵当時は、わずか63名であったが、やがて発起人を慕う青年武士や諸国の浪人、農家の次男、三男等が続々と筑波にやってきた。同志も増え、総勢400人ほどとなり、水戸藩及び幕府も本格的に筑波討伐を始めた。幕府は高崎藩以下11藩に対し、厳しい命令を出した。
 高崎藩は2,000人を出兵した。
 天狗党と幕府軍の最初の交戦は幕府軍が勝利をおさめたが、時をあけずして天狗党は、勝利に気を良くし祝杯に酔った幕府軍の寝込に夜襲をかけ、総崩れさせた。その後、幕府軍は1万3,000人の討伐兵を送り込み、7ヶ月に及ぶ戦いに勝利した。
 天狗党の残党920余名は尊王攘夷の素志を貫徹すべしと、在京の徳川慶喜へ進言するために西上の途を決めた。
 これを聞いた沿道の諸藩は何事もなく領内を通り過ぎることを願った。
 上州へは太田宿から入り、藤岡、吉井、七日市、一ノ宮を経て下仁田に入り、高崎藩と交戦を繰り広げた。
 天狗党はさらに、信濃、美濃と戦をしながら通過し、越前に入ったが幕府軍3万人との戦いに力尽き、降伏、処刑された。

 
 「下仁田での戦争の様子」
 (3)天狗党の行軍が、一ノ宮(現:富岡市一ノ宮)に入ると、幕命を受けた高崎藩は藩兵3隊320人余りの追撃隊を下仁田に向かわせ、先回りし下仁田の先の下小坂に本陣を構えた。
  元治元年(1864年)11月16日未明、両軍の砲声が山々にこだまし、天狗党920余名と高崎藩の2隊により『下仁田戦争』がはじまった。
  戦いは一進一退であったが、天狗党の三面奇襲が勝敗を分け、高崎藩は敗れ、残兵は中山道で高崎に敗走した。

 高崎藩本陣付近での激戦は午前4時から6時頃まで続いた。
 この戦いで高崎藩は36名、天狗党4人の戦死者を出した。
 深手を負い捕えられた高崎藩士は青岩河原で処刑され、翌日、戦死者と共に遺族に引き取られた。
 また天狗党の戦死者は村内の寺に厚く葬られ、重傷者の中には信州への峠を越えて絶命した者もあった。
 

下の案内看板は、下仁田町ふるさとセンター内に立てられています。

下は、ふるさとセンターから長野方向を眺めた写真です。
ふるさとセンターからは、高崎藩の本陣になった里見家と、下仁田戦争の激戦地であった里見家の周辺をはじめ、遠くに安導寺合戦が行われた方面を眺めることができます。
里見家の近くにある「高崎藩士戦死之碑」です。
この碑に刻まれた文字は、勝海舟によるものです。

天狗党の乱については、

      をご覧ください。

   【和暦と西暦について】

和暦と西暦が併記されている看板やパンフレットが用意されているところもありますが、なんのことわりもなく、江戸時代の年表が和暦のまま、というところも多く見受けられます。


わが国は、明治5年(1872122日の翌日が明治6年(1873)11日(グレゴリオ暦の187311日)になりました

 
が、それまでは和暦でした。
 
明治5年12月2日までが和暦で、明治6年1月1日以降が西暦(グレゴリウス暦)という切り替え時期を知っていればよいのですが、これを多くの方が知っているとは限りません。
 
たとえば、下仁田町のHPで、 下仁田戦争が起こった日を、
 
   元治元年(1864年)11月16日   ← 元号(西暦年)となっていて、月日は、和暦のまま。
 
と書いていますが、元治元年を西暦表記にするのであれば、和暦の11月16日も西暦表記にすべきではないかと、私は思うのです。
 
   元治元年11月16日(1864年12月14日)
 
と記載しておけば、高校生などが日本史と西洋史を考える際、とても役に立つ表記ではないかと思います。
 
とかく日本史をはじめとして、社会科関連の教科は、子どもたちにあまり人気がないと聞いていますが、年代の表示などをはじめとして、世界の歴史との比較などをさせたりすることによって、子どもたちが歴史に大きな関心を持つようになるのではないでしょうか。
 
それと、もうひとつ、和暦を西暦の月日と同じ季節感で把握してしまいますと、大きな誤解が生まれるおそれもあります。 
ここで紹介した下仁田戦争の場合、11月中旬と12月中旬では、かなり気温や日の出と日没の時刻、風の冷たさなどが違ってきます。
11月中旬といえば、寒くなってきたとはいえ、まだまだ秋(晩秋?)の感じがしますが、12月中旬となれば、真冬の感じがするのではないでしょうか。

下仁田戦争に関する年表のすべてで、

   元治元年11月16日(1864年12月14日)
 
と表記すれば、 
 
『天狗党の多くの人々は、12月中旬に野宿同然
 (武田耕雲斎らの幹部は、宿などに泊まったようですが、その他大勢は、軒先などで眠ったとのこと)で、
  寒い時季に京都に向かっていたのか、たいへんなことであっただろうな・・・』
 
と、天狗党の人々の苦労について、もっと正しく想うことができるのではないでしょうか。
 
ちょっと余分なことを書いてしまったかもしれませんが、
 
天狗党の面々は、

 下仁田戦争のあと本宿に向かい、当時の名主宅(現在の神戸金貴さん宅)に武田耕雲斉らが泊まり、

   京都をめざして長野へと向かって行くのですが、
   その先で待ち受けていたのは、たいへんな結末-まさに悲劇といってよいもの-でした。

  来年の2014年は、1864年から150年。
  下仁田町で「全国ねぎサミット」が開催される年でもあり、
  こんにゃくを通じての縁-乾燥技術の導入-も深い茨城県との縁をさらに深めるため、
  下仁田町が天狗党・高崎藩の関係者を招いて、
  150年の記念慰霊祭を開催する、というのはいかがでしょうか。

話しは脱線しますが、こんにゃくで財をなした商人が水戸浪士のスポンサーになって、桜田門外の変が起きた、ともいわれいます。

天狗党の面々が斬首されることになったとき、幕府がいくつかの藩に「天狗党の者を斬首せよ」と命じたのですが、命じられた藩は、「憂国の士を斬ることはできない」などと拒否したのですが、
「わが藩が引き受けます」と名のり出た藩がありました。
それが、彦根藩でした。

彦根藩としては、桜田門外の変の仕返し、といったことであったのでしょうね。
 
天狗党の幹部が宿泊した本宿の神戸金貴さん宅は、
のちほどご紹介させていただく予定です。

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