下仁田ねぎの記事がいっぱいです
2013.12.6の上毛新聞は、それぞれの紙面に「下仁田ねぎの記事あり」といった感じです。
つぎは、下仁田の小学4年生がねぎ掘り体験をした記事。
やはり、群馬県の冬の食材、その代表ともいえる下仁田ねぎは、多くの方々が関心をもっている、ということの証かもしれません。
さらには、群馬県知事も!!!
さらには、群馬県知事も!!!
たしかに上毛かるたの絵札(下の画像)のねぎは、
どう見ても下仁田ねぎには見えませんので、
上毛かるたの絵札の図について、
『上毛かるた「ねぎとこんにゃく下仁田名産」-これ、下仁田ねぎ・・・?-』
と題して、私は下仁田自然学校だより「くりっぺ(第67号)」で、つぎのとおり述べさせていただきました。
下仁田ねぎといえば、太くて短いかたちが特徴ですが、上毛かるたの絵では、長ねぎのようなかたちをしています。
わたしは、『こういうかたちの下仁田ねぎもあったのかな・・』という疑問を以前から感じていたのですが、「上毛かるたのこころ 浦野匡彦の半生(西片恭子著・中央公論事業出版)」を読ませていただき、『そういうことだったのか!』と疑問が解けました。
西片さんの著書に、
「初版の絵は、当時の情況では、各地を訪ね歩くも儘ならず写真などに頼った所もあり(86頁)」
「例えば下仁田葱などは庶民は見ることも口にすることもない〝殿様ねぎ〟といわれて高級料亭にのみ行く品であっただけに、昭和43年描き直された現在の絵も同じく深谷ねぎの形といわれるが、これは当時の庶民生活を語る良い例になったといえる。私も下仁田葱をこの目と口で確かめたのは昭和50年代に入ってからと記憶し、日本に飽食の時代が到来した頃であったと思う(87頁)」
と書いてあったのです。
「初版の絵は、当時の情況では、各地を訪ね歩くも儘ならず写真などに頼った所もあり(86頁)」
「例えば下仁田葱などは庶民は見ることも口にすることもない〝殿様ねぎ〟といわれて高級料亭にのみ行く品であっただけに、昭和43年描き直された現在の絵も同じく深谷ねぎの形といわれるが、これは当時の庶民生活を語る良い例になったといえる。私も下仁田葱をこの目と口で確かめたのは昭和50年代に入ってからと記憶し、日本に飽食の時代が到来した頃であったと思う(87頁)」
と書いてあったのです。
なんと上毛かるたがつくられた昭和22(1947)年ころ、下仁田ねぎは、庶民が見ることも口にすることもできない〝殿様ねぎ〟であり、高級料亭に行くだけであったのです。
下仁田ねぎは、昔から有名でしたが、庶民にとっては、まさに高嶺の花といったところで、食べることはもちろん、八百屋の店先で見かけることもない〝まぼろしの下仁田ねぎ〟でした。
上毛かるたがつくられた当時、多くの人々が下仁田ねぎの姿かたちを知っていれば、この絵を見て「間違っていますよ」という指摘が寄せられ、すぐに正しい姿かたちの絵に変更されたことでしょう。
わたしは上毛かるたの下仁田ねぎの絵が、想像で描かれ、下仁田ねぎの姿かたちが知られていなかったことを物語る貴重な資料であったということを知り、下仁田ねぎのすばらしさを再認識したのですが、皆さんはどのように感じられたでしょうか。
かつては、高級なものであり、見ることも食べることもできない時代があったということ、そして、上毛かるたに描かれた絵の〝秘話〟を紹介させていただきました。
もうすこしすれば、下仁田ねぎがおいしい冬になります。この冬も、暖かい鍋料理などで、おいしい下仁田ねぎをたくさん召し上がってください。
もちろん、おいしい下仁田こんにゃくも御一緒にどうぞ。 【本多優二】
ということで、結論としては、群馬県知事がお考えのような
「私たち(太田市)の方の長ねぎだ」
であるともいえない
〝想像上の下仁田ねぎ〟が描かれた、そんな時代状況のなかで、上毛かるたが誕生したという、
その歴史的価値を尊ぶべきであり、
当時の状況-まぼろしの下仁田ねぎ-を
きちんと説明しておくことによって、
絵札の図を変更する必要はない、
と私は考えます。
※ 群馬県知事は、群馬県の知事であり、地元だけが群馬でないはず。
知事には、「私たち」というときは、太田といった東毛でなく群馬県全体、といったお気持ちを
いつでも持っていただきたいものですが・・・
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