2013年12月13日金曜日

下仁田戦争

元治元年11月15日(1864.12.13)夕刻
天狗党 いよいよ下仁田に到着

このブログを書いているのは、2013.12.13(金)の午前8時前。
いまから149年前の1864.12.13の朝、水戸天狗党の総勢925名が吉井を出発したころかもしれません。
きょう、水戸天狗党は、吉井から6里の道のりを歩いて、下仁田に到着します。
小坂坂(おさかざか)峠には、水戸市長による石碑が立てられています。

下の画像は、小坂坂峠道の入り口(富岡市南蛇井側)です。
左側が小坂坂峠道で、右側は県道(南蛇井下仁田線)です。

   925名の人々が
  乗馬・小荷駄207頭とともに
  大砲15門をひいて、
     この小坂坂峠道を越えて、下仁田に向かって行きました。

「天狗党と下仁田戦争(大塚政義著:上毛新聞社)」によれば、

 神勇、天勇、地勇、龍勇、義勇、正義の七隊が、それぞれ武装をかため、堂々と隊列を組んで、下仁田に乗り込んできた。

 天狗党・水戸浪士軍がやってくるというので、町は不安と恐怖と、さらには怖いもの見たさの気持ちで、蜂の巣をつついたような大騒ぎであった。

といったものでした。

下の「寛永通宝」は、小坂坂峠道で見つけたものです。
水戸天狗党の歩いた道を追体験しようという思いで、小坂坂峠道を歩いていたとき、切通しの真ん中に置いてあるように落ちていたものです。
そんなこともあって、この「寛永通宝」は、旅人が落としたものかもしれませんが、私は水戸天狗党のだれかが落としたものではないか・・・と、思っています。

この寒いなか、夕刻、下仁田に到着した水戸天狗党の人々は、下仁田町内のそれぞれの家に泊めてもらい、温かい食事をとったり、からだを休ませることができたのですが・・・

この日には、高崎藩などによる水戸天狗への攻撃準備が始められていました。

    元治元年11月16日(1864.12.14)の朝、
       下仁田戦争の幕が切って落とされることになります。

下仁田戦争の展開については、次回のブログで!!!


     【下仁田戦争関連のブログ記事】
http://geogunma.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8.html
下仁田戦争 天狗党の西上-幕末の悲劇-

0 件のコメント: