2013年12月14日土曜日

下仁田戦争

元治元年11月16日(1864.12.14)未明 開戦
天狗党VS高崎藩 

いまから149年前、元治元年11月16日(1864.12.14)の早朝、下仁田で大きな戦いが始まりました。

 この戦いで、
   天狗党   4名
   高崎藩 36名
            の戦死者が出ました。
戦死者のなかには、最後は切腹して果てた、わずか13歳の少年もいました。

  (丑之助は)あまりの深手のために一行と行動を共にすることができず、自ら願って首を打たれた。
 いざ切腹する場に及んで、介錯人に
 「しばらく待ってほしい」と申し入れた。
      (略)
 「ざんばら髪のために首までたれ下がっている。これでは首をはねる時に、髪でもって刀がすべって良く切れないだろう。髪を上に束ねるまでしばらく待ってほしい」といった。
 その十三歳とも思えぬ豪気さに居並ぶ将士たちも感嘆したという。
                       「天狗党と下仁田戦争(大塚政義著・上毛新聞社)」

さらには、こんな悲劇も・・・

 掃討戦が終わってから、水戸浪士は捕虜数名を(略)青岩河原につれていき、畳二枚を敷いてその上に列座させた。
     (略)
 高月鉄五郎、二木助五郎、竹内嘉平次、山崎儀平、田上繁蔵らは武士であったので、武士としての面目を立たせて何れも切腹させた。
 この捕虜の中に山名よりつれ従ってきた医師、中村俊達がいた。
 この時、俊達は
 「士道の情をもって、切腹を申し付けてくれ」と願い出た。
 耕雲斉はその勇気に感じ降伏を進めたけれども承知せず、
    (略)
 「なんの面目があって降伏ができようか」といい残して切腹して果てた。
 それは武士も及ばないほど見事なものであったという。
   (略)
 武運つたなく捕虜となったけれど、みなよく戦い、かなりの深手を受けており無傷のものは一人もいなかったという。
 武田耕雲斉は
 「みな勇士である。丁重に葬ってやれ」といったという。
 「天狗党と下仁田戦争(大塚政義著・上毛新聞社)」

下は、捕虜になった高崎藩士と医師の中村俊達が切腹して果てた「青岩河原」です。
下仁田戦争では、双方、とくに高崎藩に大きな犠牲が出ました。
上の画像は、高崎藩の本陣がおかれた近くに立てられた石碑です。

 浪士たちも久保田藤吉、斉藤仲次らの戦死者を本誓寺に葬り、下仁田を引き上げたのは同日の午後四時頃であったが、勘定方三人は後に残って、宿舎やその他店々の買い物代までも細かく取り調べ、もれなく支払いをして出発した。
 筑波山より甲冑実戦の無頼の徒が到来したと町人の緊張は一方ならず恐れていたが、その軍規も実に厳正であったから町人は後々までこれを賞賛しつづけた。
 「天狗党と下仁田戦争(大塚政義著・上毛新聞社)」

そして、きょう、元治元年11月16日(1864.12.14)は、本宿の神戸金右衛門宅(現当主 神戸金貴氏)を本陣として、天狗党の人々は、上州の地での最後の夜を過ごし、あすの朝、信州に向かって行きます。

武田耕雲斉らが宿泊した建物と部屋は、双渓堂と称され、いまも残されています。

双渓堂の現当主である神戸金貴さんのブログには、四季折々の美しい双渓堂が掲載されています。
        かねさんの本宿フォトライブラリー
                http://blog.livedoor.jp/kanetaka2/archives/cat_50021176.html
                           
                             どうぞ、ご覧ください。
上の画像は、現在の本宿の街並みです。

いまから149年前、ここを通過していった天狗党の一行は、
このあと多くの苦難と悲劇が待ち受けていることになるのですが、
まだこのときは、そうした運命をだれも知っていませんでした。
 
下仁田にお出かけの節は、
下仁田戦争の史跡も
ご見学いただければ幸いです。

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