旧富岡製糸場と絹産業遺産群
先日のブログ(↓)
このプランで効果があるのかな・・・と思ってしまいました。
- 富岡倉庫 オープンハウス -
http://geogunma.blogspot.jp/2017/01/blog-post_26.htmlに、つぎのコメント(↓)をいただきました。
旧富岡製糸場が世界文化遺産に登録されたあと、旧富岡製糸場でガイドの説明を聞いたことがありますが、江戸期から明治期における日本や群馬、おとなりの長野県などの養蚕・製糸の歴史をふまえず、
富岡製糸場は、すばらしい!!!
というガイドの、熱にうかされたような〝富岡製糸場礼賛だらけの解説〟に驚いてしまいました。
この資料(↑)にあるとおり、群馬県の製糸は、座繰製糸が中心をしめていました。
旧富岡製糸場などの器械製糸が中心になるのは、大正期にはいってからのことになり、明治期における生糸の海外輸出を担っていたのも座繰製糸でした。
この資料(↑)は、つぎのシンポジウム(↓)で配布されたなかにあるものです。
そして、このときのシンポジウムでは、つぎ(↓)の図も提示されていました。
この図(↑)では、蚕種から養蚕、座繰と器械、生糸・織物、横浜から輸出へと続く流れを示していて、わが国の近代における養蚕・製糸の流れがきちんととらえられていて、とても理解しやすいものになっています。
こういった流れのなかで、日本や群馬県などの養蚕・製糸の歴史、養蚕・製糸が日本の近代化に果たした役割をとらえたうえでの世界文化遺産でないこと、これが旧富岡製糸場をはじめとして、構成資産を訪れた皆さんに迫力不足を感じさせ、
こんなものが世界遺産なの?
と思わせているのではないかと思っています。
平成9(1997)年に開催された「廃線から再生へ」は、「広報まついだ(平成9(1997)年12月25日付第487号)で紹介されました。
余分な話になりますが、この広報紙の表紙を見て、びっくりしてしまいました。
なんと丸山変電所跡で、説明を受けている私が写っていたからです。
いまとなっては、「広報まついだ」の表紙写真も近代化遺産に興味をもち、関わってきた私の大切な思い出ですが、このときのシンポジウムで提案された内容をはじめ、きちんとした歴史認識をふまえた群馬県での近代化遺産のストーリーづくりを進めていれば、いまと違った展開になっていたかもしれないと思うときがあります。
いまの時代、きちんとした歴史認識をふまえて、ほんとうのもの、ほんとうのことを見せなくては、
誰にも見向きされない
ものになってしまうのではないでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿