2013年6月28日金曜日

繭と生糸は日本一

下 仁 田 社

明治期の製糸業における群馬県の特徴は、「座繰(ざぐり)」と組合製糸が発展したことでした。
長野県は、群馬県と違って、「器械取(きかいどり)」が発展しました。

群馬県は、明治期の終わりまで、座繰が主流を占めて、あまり器械製糸の方法は普及しませんでした。

なぜ、群馬県は、座繰が普及したかということですが・・・

座繰であれば、家にいて、ひとりで繭から生糸をつくることができ、ほかの家事や作業をしながら、ある程度の収入が得られたために、規律の厳しい製糸工場に働きに出たがらなかった、といわれています。

下仁田社は、1893(明治26)年に甘楽社から分かれて、発足した組合製糸でした。
「群馬の生糸(みやま文庫)」に掲載されている表を引用させていただきました。

この表は、明治34年(1901)ごろの横浜に運ばれた生糸の量を荷主別にまとめたものです。

5番目に下仁田社があり、2,500個となっています。
2番目が碓氷社の6,000個、3番目が甘楽社の5,000個となっています。

碓氷社・甘楽社・下仁田社を「南三社(みなみさんしゃ)」といい、南三社が明治期の生糸づくり、それも輸出に果たした功績は、たいへん大きなものがありました。

富岡製糸場は、20番目で1,00個となっています。

富岡製糸場が払い下げになり、民間資本での経営になりますが、こういった民間資本による製糸工場を営業製糸といいます。
前橋には、多くの製糸工場がありましたが、それらは営業製糸といわれるもので、民間資本による経営でした。

南三社では、組合員である養蚕農家が持ち込む座繰でとった糸を検査して、それを品質ごとにまとめて、横浜から輸出していました。
養蚕農家の女性たちにとっては、わざわざ規律が厳しい製糸工場で働かなくても、家で働くことができ、ある程度の収入が得られたため、器械取に移行するのが遅れたともいわれています。

1905(明治38)年から荒船風穴で蚕種の冷蔵貯蔵を始める庭屋静太郎は、この下仁田社の役員をしています。

下仁田社をはじめとする組合製糸の隆盛といった空気のなかで、庭屋静太郎は、さらに養蚕を発展させ、ひいては生糸の増産を図ろう、そして、豊かな国になろうという熱意で、荒船風穴での冷蔵貯蔵事業を始めたことでしょう。

さて、下仁田社のことですが、明治の発足から大正、昭和の時代において、さまざまな工夫と努力によって、経営を続けますが・・・

戦時中における組合製糸の合同を経て、戦後は群馬蚕糸製造株式会社(群蚕)下仁田工場になって・・・
やがて、終焉を迎えることになります。

きょうは、明治期には、下仁田町に日本の経済を支えた輸出産業の一大工場があり、それを支えたのは地域の人々であったという、下仁田町の先人のすばらしい活躍を紹介させていただきました。

※ 下仁田社をはじめ、南三社のことについては、さまざまな本が出版されていますので、詳細な内容をお知りになりたい方は、それらをお読みください。

※ 地図は、1957(昭和32)年測図の「下仁田町都市計画図」の一部です。
いまから半世紀以上も前に、こんな街路事業を計画していたわけですが、これらのすべてが完成していれば、いまとは違った下仁田町になっていたのではないか・・・と、そんなことも考えてしまいます。

2013年6月27日木曜日

上毛かるた

繭と生糸は日本一

戦後間もない1947(昭和22)年、浦野匤彦氏らによって、上毛かるたがつくられました。
戦後、群馬県で少年、少女時代を過ごしたひとであれば、だれもが覚えているという上毛かるたです。
群馬県に関する歴史上の人物をはじめ、各地の名所、有名な産物等をまとめたもので、読み札の語呂がよいこともあって、とても覚えやすいものになっています。

「に」は、「日本で最初の富岡製糸」です。
いまの教科書の内容については、どのようになっているのか知りませんが、かつては社会科の教科書に「官営富岡製糸場」は、必ず掲載されていたものでした。

高校の入試問題等で、明治時代の殖産興業政策の象徴として、富岡製糸場の出題頻度が高かったと記憶しています。
この問題であれば、上毛かるたのおかげで、群馬県の子どもは、全員が正答であったことでしょう。

私は、教育実習に行った都内の高校で、生徒に自己紹介をするとき、教科書の頁を言ってから「そこに載っている官営富岡製糸場がある富岡市の出身です」と話しました。

「ま」は、「繭と生糸は日本一」です。

群馬県は、養蚕が盛んな土地であり、「ずっと昔から日本一ではなかったの?」と思っている方がいるかもしれませんが、意外なことに、繭の収穫量(府県別の全体量)において、日本一になるのは、1954(昭和29)年からです。

それまでは、長野県が日本一でした。

戦後、GHQは、日本に対する食糧援助の見返りとして、生糸に着目しました。
繭から生糸、製品化までが国内でできる唯一の〝工業製品〟であり、アメリカにおける需要もあったからでした。

わが国では、養蚕、生糸の増産が奨励され、急速に生産量が増加していきます。

ところが、1957(昭和32)年・1958(昭和33)年の蚕糸不況-1954(昭和29)年から下落してきた糸価が1957(昭和32)年10月から大きく下落-と生糸の海外輸出の伸び悩みによって、生産調整が行われることになります。

1957(昭和32)年には、不況で生糸の国内消費も落ち込むのですが、この年は天候に恵まれたこともあって、戦後最高の繭生産量(11万9千トン)を記録するとともに、生糸の生産量も戦後最高に達しました。
1957(昭和32)年という年は、群馬県の養蚕業、製糸業にとって、たいへん皮肉なめぐりあわせの年になったといえます。

その後、1960年代の高度成長期に国内需要が増加-シルクブームの再来-して、生糸価格が上昇するのですが、これは長続きしませんでした。

それは、日本人の「着物ばなれ」です。

私が子どものころはといえば、入学式などの行事のとき、小学校に来られる母親の全員が和服姿でした。
ところが、中学校に入るころには、洋服姿の母親が多くなり、和服姿の母親が少なくなっていました。

ちょうど1960年代の高度成長期、「着物ばなれ」といった時期に小学生、中学生であった私は、このころの急激な変化をよく覚えています。

その後の養蚕業、製糸業の衰退については、ご存知のとおりです。
敗戦後における養蚕業と製糸業の活況は、まことに一時的なものであり、儚い、いっときの夢のような時代であった、ともいえます。

上毛かるたの「繭と生糸は日本一」を見るたび、江戸時代の後期から明治、大正、昭和と続く時代、一生懸命にお蚕を飼って、繭を出荷していた養蚕農家、その繭を買い集める糸繭商の方々、製糸工場で必死に糸をとっていた工女の方々の姿を思い浮かべます。

いまの私たちの暮らしは、こうした方々の努力によって、もたらされているといっても過言ではありません。

小さな昆虫-カイコガ-が吐き出す細い糸によって、わが国の近代は成り立っていたのですから。

2013年6月24日月曜日

荒船風穴

養 蚕 の 神 々

荒船風穴は、群馬の地にとって、というより明治期の日本にとって、重要な産業であり、輸出品目でもある生糸、その生糸のもとになる蚕の種(卵)を冷蔵保存するための施設でした。

いま、荒船風穴のガイド用資料(私の手持ち)をつくっているのですが、この地の神社における養蚕、機織りに関する神々のことを調べてみようと思っています。

群馬県は、とても養蚕が盛んでした。
しかし、安定的な作柄の確保は、とても難しいことでした。
養蚕は、デリケートな昆虫を扱うため、つねに病害虫の発生の心配をしなければならず、飼育中は気が抜けない日々を過ごすことになります。

そんなとき、人々は神々に「蚕があたりますように」と祈ったのではないかと考えてみました。

たくさん繭がとれたとき、「あたった」といい、繭が期待どおりでなかったときは、「はずれた」といいます。
群馬の地で養蚕が始まった時代は、定かになっていないということですが、朝鮮半島からの渡来人によって、養蚕や織物の技術が伝わったといわれています。

富岡市一ノ宮の貫前神社の御祭神は、経津主神(ふつぬしのかみ)と姫大神(ひめおおかみ)です。
姫大神は、機織りの神といわれています。

貫前神社では、4月下旬に養蚕安全祭、12月11日には神機織神事が行われています。
いまでは、養蚕農家が減り、また機織りをする方がいなく(趣味で機織りをされている方はいらっしゃると思いますが、むかしは女性の副業(あるいは、本業)として、盛んに機織りが行われていました)なりましたが、貫前神社では、むかしからの人々の祈りをいまに受け継いでいます。

富岡市と甘楽郡内の神社で、養蚕に関する神々をお祀りしている神社があるかどうか、「富岡甘楽 平成神社明細誌(群馬県神社庁富岡甘楽支部編・群馬県神社総代会富岡甘楽支部編・平成5.9.11発行)」で調べているのですが、わたしの予想に反して意外とすくなく、富岡市蚊沼地内の飯縄(いいづな)神社のほか4社のみでした。(これから細かく調べれば、もっとあるかもしれませんが)

お蚕の神様というのは、「オシラサマ」というような名前(地区によって、いろいろな名前があるようですが)で、それぞれの養蚕農家が個々にお迎えする神であったため、神社にお祀りする必要がなかったのかもしれません。

でも、当地でいちばん(というより、群馬県の一の宮)の貫前神社では、この地をはじめとして、群馬県全体の養蚕が安全に行われ、それぞれの人々が豊かに暮らせるように、とお祈りをしてきたのでしょう。

かつては、機織りの上達を祈る若い女性がたくさん参詣されたと聞いています。

それぞれのお宅のお蚕の神様とともに、人々が貫前神社で養蚕が〝あたる〟ことを祈り、機織りの上達を祈っていた、そんな時代があったのですね。

ところで、貫前神社といえば、下り参道で有名ですが、下仁田町馬山の馬山神社も下り参道になっています。
参道の石段数は、貫前神社より少ないのですが、ここも石段をくだって、参拝する神社になっています。

この馬山神社は、明治の神社合祀のとき、当時の馬山村全体の神々をここにお祭りしたとのことで、たくさんの御祭神が鎮座されております。

御祭神の多さでは、富岡市と甘楽郡内の神社でナンバーワンではないかと・・・
当地には、一の宮の貫前神社をはじめとして、馬山神社のように村の総鎮守としての神社がたくさんあります。

養蚕をはじめとして、日々の暮らしの安寧を祈ってきた先人の思いにふれていただけたら、と思います。

どうぞ、当地にお出かけの節は、貫前神社、馬山神社をはじめ、各地の神社に御参拝ください。

2013年6月21日金曜日

上信電鉄

あ ら ふ ね 号

このブログの2013.6.6付け「珍しい看板」で、かつて「荒船号」という国鉄の電車が上信電鉄で走っていたことを紹介しました。

この写真は、「上信電鉄百年史(以下「百年史」といいます)」に掲載されているもので、これが「あらふね号」になります。

               「荒船号」ではなくて、「あらふね号」でした。
                 お詫びして、訂正させていただきます。

百年史の年表には、つぎのとおり記載されています。

    昭和35年(1960) 7.   「あらふね号」電車直通運転許可申請
      〃       10.       〃   直通運転許可
     〃   36年(1961) 4.23     〃   直通運転開始
           〃   44年(1969) 9.       〃    直通運転終了・115型4両


「あらふね号」の運行時刻表(昭和37年7月)が、百年史に掲載されています。
 

     (下  り)                     

      上野駅      01:00
      大宮駅       01:44
      熊谷駅       02:25
      高崎駅       03:20
      下仁田駅   04:13

  (上  り)
     下仁田駅    17:13
     高崎駅       18:44
     熊谷駅       19:32
     大宮駅       20:17
     上野駅       20:54

上野駅を午前1時に出発し、下仁田駅に4:13分に到着。このあと、臨時便のバスなどによって、荒船山や神津牧場方面に向かいました。

百年史には、昭和36(1961)年に「あらふね号」の直通運転を開始したときは、6月25日までの2か月間の休日に1往復との予定であったが、乗客が多いために11月5日まで延長されたと記載されています。
夕方には下仁田駅から「あらふね号」に乗車して、東京方面に帰るという日帰りのハイキングは、当時の若者たち(だけとは限らないでしょうけれど)に、とても人気があったことが想像されます。
むかしのことを紹介しましたので、現在の上信電鉄のレール、背景の山々を撮った写真(上小林地内で撮影)をモノクロにしてみました。

山の紹介をいたしますと、正面の手前が破風前場(地元では、「はめえば」と発音しています)の岩山で、その右に小さな突起のように見えるのが、鍬柄岳(くわがらだけ。地元では、「石尊山(せきそんさん)という呼び名が使われることが多いようです)です。
さらに、その右側のなだらかな曲線の山が大桁山(おおげたやま)です。
この写真には写っていませんが、写真の右側には、美しい姿の神成山(かんなりやま)があります。

かつて、「あらふね号」で来られた方々もこうした風景を眺めたり、荒船山や神津牧場、妙義山方面で楽しいハイキングをされていたことでしょう。

これからの時代のこと-エネルギーや環境のことなど-を考えるとき、電車での移動はとてもよいことではないかと思います。

    上野駅のホームから、
       下仁田行き「ジオパーク号」が出発して、
       たくさんの方々にお出かけいただける、
       そんな時代になってほしいものだと思っています。

    ところで、最初の画像(百年史から引用した画像)に「扛上」ということばがあります。
    これは、「こうじょう」と読み、ホームなどをかさ上げすることを意味しています。
    一般的にはつかわれていない用語ですので、わかりづらいことばといえるかもしれませんね。

2013年6月17日月曜日

世界遺産候補

世界遺産に登録されると、どんな効果があるの?

と、よく聞かれますが、私は、

世界遺産を保有する地元の熱意、考え方しだいでしょうね、

とお答えしています。

といいますのは、かりに世界遺産に登録されたとして、登録後の数年間(おそらく、1年とか2年ぐらい)は、見学客が押し寄せてくるでしょうけれど、そのあとは閑古鳥が鳴いている、といった状態が予測されるからです。
これは、世界遺産に登録されたところのどこでも共通する現象です、

どんなにすばらしい世界遺産であっても、よほどのファンでない限り、何度も何度も足を運んでくれることはないと考えるべきです。

冷風が噴き出ているだけの石垣を、多くの方々が何度も見たいと思うでしょうか。
煉瓦の倉庫にしたところで、多くの方々が何度も見たいと思われるでしょうか。

こうした〝現実〟をしっかり見据えたうえで、

世界遺産に登録されることが、
〇 わが市、わが町にとって、どのような意味を持つのか、
〇 これからのまちづくりにおいて、どのような位置づけをするのか、
といったことを住民と行政が話し合って、
基本的な考え方、その合意をはかっておくことが必要

なことであろうと考えます。

もし、こうした合意形成をはじめとして、世界遺産に登録されるためのさまざまな場面において、本気にがんばらないままの状態で、世界遺産に登録される事態になったら・・・
がんばらなくても世界遺産に登録されるという〝珍世界遺産〟ということで、さらに有名な世界遺産になるかもしれませんが・・・

といった冗談は、さておいて、

世界遺産に登録され、道路は大渋滞、住民の生活は大混乱・・・などといった事態を避け、
ゆるやかに成長、持続する地域での生活をベースにして、
将来も楽しく暮らせるまちづくり、
そのためのキーワードとして、世界遺産を考えること、
これが何よりも重要ではないか、

と私は考えています。

というしだいで、地元の熱意と考え方によって、十分に生かすこともできるでしょうし、宝の持ち腐れにしてしまい、やっかいもの扱いされかねない-たくさんの経費をつかって、困ったものだという批判等-ようなことにもなるでしょうね、ともお答えしています。

2013年6月16日日曜日

大桑原の褶曲露頭

シンフォーム状背斜

大桑原の褶曲露頭は、下仁田町大桑原地内の南牧川左岸にあります。
写真の左側が上流側になります。
上流側の翼部が正序層で、下流側の翼部が逆転層になっていて、軸面が大きく倒れこんでいます。
シンフォーム状背斜とは、このような褶曲のことをいいます。
上部白亜系跡倉層の砂岩泥岩互層が複雑に変形しています。

大桑原の褶曲露頭は、クリッペを構成する地層が移動していったとき、大きく折れ曲がってしまったようすを観察することができます。

かつて、この地で、にわかに信じがたい地層の動きがあった、ということを体感できる場所のひとつです。

大桑原の褶曲露頭は、垂直であったであろう背斜の軸面が倒れこんで、回転してしまったようすが観察できる・・・といっても、なんのことやらさっぱりといった感じがするかもしれませんが、現地で褶曲露頭を実際にご覧いただければ、「なるほど!」とご理解いただけます。

どうぞ、下仁田ジオパークにお出かけください。

2013年6月12日水曜日

荒船風穴

風穴のしくみとは・・・

きょうの午後、下仁田町自然史館において、福山市立大学の澤田結基先生による「風穴のしくみ」についての学習会がありました。
荒船風穴は、蚕種が保存されていたころ-明治後期から昭和初期-と変わらず、いまも冷気が出ています。

その冷気ですが、
   どうして冷気が出てくるのか・・・
といったことについては、いまのところ詳しくわかっていません。
上の写真は、冷気が下から出る仕組みの簡易な実験を、澤田先生に教えていただいているところです。

澤田先生は、北海道鹿追町の風穴をはじめ、全国各地の風穴を調査されています。

きょうの学習会では、澤田先生の調査結果に基づいて、荒船風穴の冷気が出てくる仕組みを教えていただきました。
澤田先生によれば、荒船風穴の冷気が出る仕組みの全容解明には、今後も多くのデータ収集と調査が必要とのことでした。

澤田先生には、これからも荒船風穴の調査を続けていただいて、冷気が出る仕組みの全容を解明していただきたいと、つよく思いました。
また、調査に必要な機材などを下仁田町役場で調達し、必要なデータ収集を早期に行うことが必要なことではないか、とも思った学習会でした。

きょうは、とても貴重なお話を聞かせていただいたことを、たいへんうれしく思っています。
澤田先生に心からお礼を申し上げます。

2013年6月11日火曜日

大桁山&鍬柄岳

ニホンカモシカに遭遇!!!

わかりづらいと思いますが、赤い矢印のところにニホンカモシカがいます。

この写真を撮る前、カーブのところでニホンカモシカに遭遇したのですが、デジカメのスイッチがOFFになっていたことのほか、私が驚き、あわててしまっていたこともあり、遭遇した瞬間の写真は撮れませんでした。

デジカメのスイッチをONにして、近づいていったところ・・・
後ろを振り向いて、待っていてくれました。
ズームを最大にして撮影した画像です。

待っていてくれたというのは、私の勝手な思い込みだと思いますが、ほんとうにそんな感じがする表情で、私をじっと見ていました。
このあと、右の斜面を下りていきました。

以前、長野県の浅間山麓で、ニホンカモシカに遭遇したことがありました。
近い距離であったのですが、斜面の上のほうにシカがいたこともあって、なんとなく遠い感じがしたのですが、今回は林道上での遭遇ということもあって、たいへんどきどきしました。

これまで、「大桁山にニホンカモシカがいる」と聞いたことがありませんので、私が大桁山で、ニホンカモシカに遭遇できたことは、とても珍しいことなのかもしれません。

大桁山&鍬柄岳

おおげたやま&くわがらだけ

来月に予定されている自然観察会の下見で、大桁山(835.9m)と鍬柄岳(598m)に登ってきました。
大桁山は、火山岩体が第三紀層の地層を押し上げてできた山です。
鍬柄岳は、平滑(なめ)花崗岩の貫入岩体です。
右側の山は、「はふまえば」の岩山です。地元の方々は、破風前場を「はめえば」と発音します。

地図に山名が記載されていない山-里山-は、それぞれの地区によって、その山を眺める角度などが違うために、それぞれの呼び名が付けられていることがあります。
代表的な小字(こあざ)や沢の呼び名を山の名前にしたり、山の形状に着目して、名前をつけているようです。

里山を歩いていて、山道や畑で地元の方々に会ったとき、
  「あの山は、なんという名前の山ですか」
と聞いてみてください。
この話しかけによって、おもしろい山名を教えてもらえたり、いろいろなことを聞かせていただければ、山歩きの楽しさが倍加すると思います。
ぜひ、お試しください。

大桁山の山頂です。
とても眺めのよい大桁山の頂上なのですが・・・
きのうは、視界がよくなかったため、遠くまで見えませんでした。

つぎは、鍬柄岳です。
大桁山から鍬柄岳に向かうとき、尾根の縦走路を歩きました。
尾根の縦走路は、初めて歩きましたが、とてもスリリングなコースでした。

上の画像は、鍬柄岳の鎖場です。
鍬柄岳は、598mという低さですが、直立した崖を登り降りしますので、「山に登った!」という気分を味わうことができます。

鍬柄岳の山頂です。
鍬柄岳の頂上からは、荒船山や鹿岳、四ッ又山などが見えます。
山頂には、石宮があります。

いまでも地元の方々によって、大切にお守りされている神様です。
お祭りのときは、この山頂に長い竹竿を立てて、その竹竿の先に幟(のぼり)を下げます。
幟が風にはためくようすは、遠くからも見ることができます。

むかしの人々は、この岩山に神が降り立ち(よりしろ)、私たちに豊かな実りと幸せな生活を与えてくれる、そのようなことを思って、険しい崖をよじ登り、石宮をつくったのでしょう。
その先人の思いを引き継いで、いまでも地元の方々が大切にお守りしている神様です。
無事に登らせていただいたことを感謝して、山頂をあとにしました。

2013年6月9日日曜日

砥石

小坂砥山(おさかとやま)

「北甘楽郡史(本多亀三著)」によれば「小坂砥 小坂村大字小坂より産す。明治維新頃より、漸次切り出し始めたり。一時は、頗る盛況を呈し砥澤砥に亜ぐの産額を見るに至りしが、今は採掘せざるが如し」と記載(193頁)されています。

小坂砥山は、戦後も操業していたとのことで、使われていたトロッコの車輪やレールが残されています。
「北甘楽郡史」は、昭和の初めに発行されました。
「北甘楽郡史」の記述では、「いまは、採掘していないようだ」となっていますので、実際に採掘されなくなっていたのか定かでありませんが、昭和の初めか大正時代あるいは明治時代のある時期において、操業しなくなっていたことがあったのかもしれません。
これは、切り出した砥石を運搬する鉄索です。
写真奥に見える集落まで、砥山から砥石を降ろしました。
操業していた当時(戦後のようす)の写真です。
切り崩した原石やトロッコのレールが見えます。
その奥に坑口が見えます。
この写真が撮られたころには、露天掘りだけでなく坑内掘りもしていたのだろうか・・・、と気になる写真です。
いまの状況です。
柱状節理がよくわかるかと思います。

   【お 願 い】
小坂砥山につきましては、下仁田ジオパークのジオサイトでありません。
ここは私有地ですので、立ち入らないでください。

2013年6月7日金曜日

宮室(みやむろ)の逆転層

地 層 の 逆 転

アンモナイトなどが海にいたころ、砂や土が海底に堆積して、それらが積み重なり固くなった地層なのですが・・・
どういうわけか、ここで見られる地層は、下に積もって固まった地層が上になり、上に積もって固まった地層が下になっています。
この画像は、南牧川に架かっている万年橋の上から宮室の逆転層を撮影したものです。
万年橋は、下の写真でおわかりのとおり、とてもきれいな橋です。

ここが宮室の逆転層を観察するポイントです。
上の写真では、見づらいかもしれませんが、地層が逆転したことは、きめの粗い砂の層が上になっていて、きめの細かい土の層が下になっていることからわかるのです。

簡単な実験をひとつ紹介します。
ペットボトルに土と砂を入れ、そこに水を注ぎ入れて、よく振ってみてください。
よく振ったあと、そっとペットボトルを平らな所においておきましょう。
そうすると・・・
まず、きめの粗い砂の層が下に沈んでいき、そのあとにきめの細かい土が沈んでいきます。

海底や湖底に土砂が堆積するときは、このようにして堆積していきます。
これが、級化構造といわれるものです。

     ※ 軽石の場合であれば、粒が大きくても軽いため、なかなか沈みにくいので、
      かならずしもきめが粗いからといって、先に沈んでいくとはいえませんので、
      注意が必要です。

南牧川の清流をわたって吹いてくる涼しい風を感じながら、
宮室の逆転層を観察してみませんか。
そして、どうして地層が逆転してしまったのか、
ご一緒に考えてみませんか。

2013年6月6日木曜日

珍しい看板

荒船山コース
この写真は、2004年(平成16)9月に撮影しました。
看板に「尾沢村星尾」とあります。

尾沢村は、1955年(昭和30)に南牧村になりました。
この看板は、尾沢村が南牧村になる前につくられたことになります。
いまは、JRになりましたが、「国鉄」とあるのも懐かしい感じがします。

たいへん古い看板といえるでしょう。
よほどしっかり製作されたものとみえて、およそ半世紀(合併した年の1955年に設置されたとして、2004年の撮影時点までの時間としたとき)が経過していると思えないものです。

この看板が設置されたのは、かつて「荒船号」という臨時列車が運行され、東京などから若者たちがたくさん荒船山に登られていたからなのです。
臨時列車の「荒船号」が運行されていた細かな内容、時期等については、まったく知りませんが、高崎駅で国鉄の線路から上信の線路に乗り入れ、下仁田駅まで運行していたと聞いています。

この看板をご覧になって、「おっ、懐かしいな!」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。

南牧村星尾から荒船山に登るコースには、この看板と同じものが設置されています。
これから荒船山に登られるときは、この珍しい看板をどうぞご覧になってください。
とてもすばらしいものです。

そして、南牧村といえば・・・

「滝の里」としても有名です。

いまは、梅雨の時期というのに、よく晴れて暑い日が続きますが、こうした暑い日や、これからの真夏には、涼しさ満点の滝めぐりが最高です。

どうして、このような滝ができたのか・・・といったことを考えながらの滝めぐりをしたあとは、道の駅「オアシスなんもく」に立ち寄って、おいしい「とらパン」などを味わってください。

下仁田ジオパークのおとなり、南牧村も見どころ、楽しさ、おいしさいっぱいです。
下仁田ジオパークの見学とあわせて、南牧村の見どころ、楽しさ、おいしさも堪能してください。

2013年6月2日日曜日

化石研究

化石研究会 シンポジウム

2013.6.1(土)午後、下仁田町文化ホールにおいて、化石研究会総会・学術大会が開催されました。

最初に渡辺真人さん(産業技術総合研究所地質標本館・日本ジオパーク委員会事務局)の基調講演「世界と日本のジオパーク活動」が行われました。
上の写真は、渡辺真人さんの基調講演後の質疑応答のようすです。
天草御所浦ジオパーク構想推進協議会事務局・天草市立御所浦白亜紀資料館の鵜飼宏明さんによる「天草御所浦ジオパークと化石の関係」をはじめ、白山手取川ジオパークの日比野剛さん、戸台の化石保存会の北村健治さん、秩父まるごとジオパーク推進協議会の吉田健一さん、神流町恐竜センターの久保田克博さんによる事例報告のあと、総合討論が行われました。

上の写真は、総合討論のようすです。
シンポジウムのテーマ「ジオパークにおける化石について~地域の宝をどのように残していくか~」について、研究活動、子どもたちを対象にした体験教室などを通じての啓発活動のあり方、地域の方々を巻き込んでの化石産地の保護、保全の図り方などをめぐって、白熱した討論が展開されました。

シンポジウムの会場では、下仁田自然学校による書籍販売が行われました。
特別価格での頒布ということもあって、こんなにたくさんご購入された方も。
シンポジウムで熱い討論のあと、化石研究会の方々を下仁田層の貝化石産地、諏訪神社などにご案内しました。
上の写真は、下仁田ジオパークのボランティアガイドである飯島富司さんが諏訪神社をご案内しているところです。

            きょうの6.2(日)は、
          下仁田町公民館において、
          10:00~15:20に
          一般講演等が行われます。
どうぞ、お出かけください。