2013年7月31日水曜日

台風9号

自然災害 

このところ日本の各地で、大雨による大きな被害が発生しています。

大雨などの自然災害を未然に防ぐ手立ては、いまのところありませんが、これからの台風シーズンを考えるとき、
  まず自分の身は自分で守り、
  大切な家族は、自分が守る、
といった気持ちで、自然災害への備えをしておきたいものです。

下仁田町・南牧村では、2007年9月の台風9号によって、大きな被害を受けました。
この画像は、台風9号が去ったあと、青岩公園で撮影したものです。
緑泥石片岩の上に大きな礫が乗っかっていますが、その多くはこのときの台風9号で上流から運ばれてきたものです。

    【私の備え】
① 庭木などの伸びた枝の剪定・家のまわりの片付け
  ←強風で枝が折れて吹き飛んで、周囲に思わぬ被害を引き起こさないようにするためです。
② 非常用食料等の確保
  ←いちばん困るのが断水と停電ですので、非常用食料のほか、とくに飲料水と乾電池を確保しておきます。
 ※浴槽に水をはっておく、というのもいざというとき効果的です。
③ 保冷剤の利用
  ←冷凍庫で保冷剤を凍らせておき、停電になった際には、冷蔵庫から保冷バッグに冷蔵食品を移して、保冷剤が持つ間だけでも冷たく
 保存できるようにします。
④ ラジオやテレビの気象情報の活用
  ←インターネットでの情報収集とあわせて、ラジオやテレビの気象情報をこまめに聞いたり見ています。
⑤ 富岡市の防災通知システムの活用
  ←富岡市では、登録者への防災通知(メール配信)システムを整備しています。
 

これは、杉が柳と桜にひっかかっているといいますか、突き刺さった状態になっているところです。
画像には、浸水したお宅で後片付けをされているようすが写っていますが、2007年の台風9号は、下仁田町・南牧村をはじめ、鏑川沿いの市町に大きな被害をもたらしました。
これは、この夏の青岩公園の画像ですが、の位置に上流から流されてきた杉が突き刺さっていたのです。
                これからの台風シーズン、気をつけて過ごしたいものですね。

2013年7月22日月曜日

117周年記念事業

上 信 電 鉄

2013.7.21(日)には、117周年記念事業として、デキが列車をけん引して走るというので、たいへん楽しみにしていたのですが、
待てども待てども、デキがこない・・・
そういえば、通常ダイヤでの列車も通過しない・・・
これは、もしかして事故でも起きたのかな・・・
などと考えながらデキを待っていたのですが・・・

写真を撮りに来られた方から「踏切事故があって、定時での運行ができなくなり、乗客は違う車両に乗り換えて、下仁田に向かったようです」とお聞きしたので、とても残念だったのですが、いつもの撮影場所(自宅から近いのですが)から帰宅しました。

それからおよそ2時間後の13時、「ピー」というデキの警笛の音が聞こえたので、外に出てみますと、拙宅前をデキが通過していくではありませんか。
あわてて撮影したのが、上の写真と下の写真です。
117周年の記念イベント列車は、回送ということにしたようで、乗客の姿は見えませんでした。

このイベント列車への乗車を楽しみにされていた方々や下仁田での各種行事への参加も楽しみにされていた方々には、たいへん残念なことになってしまったかもしれませんが、これも思い出のひとつと思っていただいて、どうぞ、これからも上信電鉄をご利用いただき、甘楽町、富岡市、下仁田町、南牧村方面にお出かけください。

2013年7月18日木曜日

風立ちぬ


「堀越二郎の軌跡」展  藤岡歴史館

2013.7.20(土)全国ロードショーの映画「風立ちぬ」で、主人公のイメージとして取り上げられている堀越二郎氏は、群馬県藤岡市の出身です。

きのうは、藤岡歴史館で開催中の「堀越二郎の軌跡」展を見学してきました。
向かって右側が、藤岡歴史館のポスターです。
向かって左側は、所沢航空発祥記念館で開催されている「堀越二郎の生涯」展のポスターです。

堀越二郎氏の業績については、多くの方々に知られているところですが、藤岡歴史館の展示では、少年時代のエピソードをはじめとして、彼が設計した飛行機の写真、資料-緻密な計算資料・設計メモなど-を見ることができます。

ことしの夏は、映画の「風立ちぬ」の鑑賞とともに、藤岡歴史館・所沢航空発祥記念館の展示をご覧になり、航空機の設計において、わが国の水準を一気に引き上げた堀越二郎氏の偉業をしのんでみませんか。

藤岡歴史館です。

 ※ 「堀越二郎の軌跡」展と藤岡歴史館については、こちら(↓)をご覧ください。
http://www.city.fujioka.gunma.jp/kakuka/f_bunkazai/h25_2kikakuten.html

藤岡歴史館のエントランスホールに掲示していただいてありました。
たいへんありがとうございます。

藤岡歴史館で「堀越二郎の軌跡」展をご覧になったあとは、下仁田ジオパークのご見学にお出かけいただければ幸いです。

2013年7月15日月曜日

只川橋

土木遺産

只川橋は、群馬県内で7件目の土木学会選奨土木遺産に認定(一昨年)された橋で、とても美しい姿をしています。

土木学会選奨土木遺産に認定されたのは、只川橋の技術性、社会性、まちづくり資源としての有用性が評価されてのことです。
この橋は、下仁田町馬山と富岡市南蛇井間に架けられました。
1931(昭和6)年のことでした。

群馬県内で初めての「2ヒンジ鋼トラスアーチ橋」で、橋の支点部に蝶番(ちょうつがい)の役割を果たすヒンジというものがあります。
     ※ 右は、あとで建設された歩道橋です。

                                  1993.11.18撮影

いまもがんばっている只川橋には、高い崖と広い川幅の鏑川を渡るために、「大水で流されない橋がほしい」と願った先人の思いが込められています。

      下仁田ジオパークのご見学の際には、
         すばらしい土木遺産である只川橋も
             ご見学いただければ幸いです。

2013年7月10日水曜日

恐竜の話

「恐竜の飼い方」

たいへんおもしろい本を紹介します。

  『「もしも」の図鑑 恐竜の飼い方』 です。
このような本が出版されるということは、この世の中には、〝恐竜を飼ってみたい!〟と思っている方が、私のほかにもいる・・・ということの証ではないかと思うほど、私のツボのど真ん中に入った本です。
著者は、土屋健さんという方です。
そして、、群馬県立自然史博物館の名誉館長である長谷川善和先生、高桒祐司さん、三田照芳さんが監修しています。
富岡市にある群馬県立自然史博物館は、たいへんすばらしい展示がたくさんありますが、そのなかでも恐竜関係の展示は、ほんとうにすばらしいものです。

以前、このブログで、「私の体験的〝化石探し〟講座」というのを投稿しましたが、この投稿のページビューの数は、ほかの投稿と比べ物にならないほど、多くの方々に閲覧していただいています。
とくに、2013.3.29に投稿した、「私の体験的〝化石探し〟講座」は、ダントツの閲覧数を記録させていただき、いまも閲覧数が伸びています。

  化石好きな方がたくさんいるのだな・・・と、つくづく思います。

これは、2013.7.9(火)の読売新聞の記事です。
私の場合、こうした記事を読みますと、

 ① 恐竜の化石を発見したいものだ。それが新種ということで、恐竜名に私の名前も入れていただいて・・・
 ② 映画のジュラシックパークのようになっては困るけれど、かわいい恐竜であれば飼ってみたいものだ・・・

ということを思うのです。

『「もしも」の図鑑 恐竜の飼い方』は、そんな思いに応えてくれる本です。
恐竜好きの方には、必読書といっていいでしょう。

ところで、この本では、読売新聞の記事にあるティラノサウルスの飼い方も紹介されています。
   (本の目次の一部であれば、著者に失礼ではないと考えました)
あなたのお好きな恐竜がいましたか。
 
               ことしの夏は、       
              恐竜といっしょに暮らす、
           そんな生活を考えてみませんか。
         おもしろいライフスタイルが見つかるかもしれません・・・

2013年7月9日火曜日

思い出の富岡

NHKのど自慢

一昨日のブログでは、1984(昭和59)年8月の七夕祭りを紹介しました。
「グラフとみおか ’852号 -おめでとう市制30年」には、富岡で行われた「NHKのど自慢」の公開録画のようすが掲載されています。
記事の部分を拡大してみますと・・・
予選出場者が327人、入場申込者が3,732人であったとのことで、たいへん盛況であったことが伺えます。
 とても盛り上がっているようすがよくわかります。

実は、ステージの上と会場に、私の知り合いがいます。
30年前の姿を拝見して、とても懐かしい気持ちがします。

NHKのど自慢は、
 素人が熱演し、
 会場から熱い声援を送る、
こんなシンプルな視聴者参加型であることが、いまでも根強い人気がある理由といえるかもしれません。

ことしの10月20日(日)には、富岡市かぶら文化ホールにおいて、NHKのど自慢が開催-公開生放送-されます。
 
観覧、出場者の募集等については、「広報とみおか8月号」や富岡市のHPでも案内をしてくれるそうです。

そういえば、1984(昭和59)年のときは、公開録画で、収録から1か月後に放送されているのですね。
まだ、このころは、中継機材の数が十分でなく、のど自慢は中継でなく録画で対応する、ということになっていたのかもしれません。

ことしの秋のNHKのど自慢でも、たくさんの方が出場申し込みや観覧申し込みをして、元気な富岡をアピールしたいものです。

ご参考までに、NHKのど自慢に出場申し込みをしますと、「申し込み結果のお知らせ」というはがきが送られてきます。
 昨年の夏、前橋で開催されたときのものですが、出場申し込みが1,572通もあったとか!!!
そのなかから250組が予選に出場し、さらに20組が選ばれて・・・というわけで、
およそ70倍という狭き関門を突破しての本選出場となるわけですね。

えっ、どうして、おまえがこのはがきのことを知っているのかって?

はい、それは私あてに送られてきたからです。

昨年の前橋開催では、残念なことに予選にも出場できませんでしたので、この秋の富岡開催では、予選出場をめざしてがんばりたいと思っています。

    NHKのど自慢を聴くだけ、見るだけでなく、
      NHKのど自慢に参加して、さらに楽しんでみませんか。

2013年7月7日日曜日

思い出の富岡

七 夕 祭 り

きょうは、7月7日ということで、七夕祭りの思い出を・・・

といっても、富岡の七夕祭りは、7月の7日ではなくて、8月の7日(あるいは、7日に近い日の土日)に行われていました。
この写真は、「グラフとみおか ’85第2号 -おめでとう市制30年」から転載させていただきました。
1984(昭和59)年8月に開催された七夕祭りのようすです。

写真の解説に「エリマキトカゲも登場」とありますが、そのエリマキトカゲが写真の右上に写っています。
画面左のほうには、入山洋品店の看板が見えています。

それぞれの商店が工夫を凝らした飾りつけは、どれもこれもたいへん見事なものでしたが、とくに私が記憶しているのは、朝日屋の飾りつけがすばらしかったことです。
このエリマキトカゲは・・・
写真の位置から考えるとき、朝日屋の作品ではないかと思われるのですが・・・

とにかく朝日屋の飾りつけは、その時代のトップニュースやエピソードをたくみに造形化して、毎年、毎年楽しい飾りつけをつくっていたことです。

この七夕祭りのころは、両親が養蚕で忙しいため、小さいときは、近所の子どもたちと連れ立って、てくてく砂利道を歩いて、富岡の町中に行ったものでした。
わずかな小遣いを握りしめ、バスに乗らず、かき氷を食べたい一心で、汗びっしょりになって歩いて行きました。

その後、富岡の七夕祭りを何度も見てきましたが、小さかったときの宮本町通りのことは、いまでも鮮明に覚えています。
そして、にぎやかな七夕祭りのことも覚えています。

いまの子どもたちに、
 ぼくが小さかったとき、宮本町通りの〇〇祭りは、とてもにぎやかだったな・・・
 わたしが幼稚園のとき、宮本町通りのお店によく買い物に連れてきてもらったな・・・
というような思い出をつくってあげられたら・・・
とてもすばらしいことではないかと思います。

スカイツリーが建設された地元の商店の方々は、
  スカイツリーが建設されたら多くのお客さんが来てくれる、
と、期待していたとのことですが、
  実際には期待外れであったということです。

やはり、地元の人々でにぎわう商店街、これが商店の商売繁盛のもとであり、ひいては地域の発展につながるのかもしれませんね。

観光などで富岡に来られる方々が、ぶらぶら歩きながら、ふらっと立ち寄っていただける・・・そんな商店街になれば、さらにすばらしいことであることは、申し上げるまでもありません。

そういえば、七夕祭りの思い出がもうひとつあります。
それは、墨をするとき、サトイモの葉っぱの上の水(表面張力で、まるくなっていて、葉の動きにあわせて、葉の上をころころ動きまわります)を使うというもので、畑に小さな容器を持って、その水を取りに行ったことです。
母からは、「サトイモの葉の上の水ですった墨で願い事を書くと、願い事が叶い、字がじょうずになる」と言われたのですが・・・・
いまだに字がじょうずになっていません。

じょうずに字を書くためには、サトイモの葉の上の水より、日ごろの努力が大切であったかもしれないと、ようやく気づいてきましたが・・・
  そういえば、願い事も叶ったことがなかったな・・・
という思い出も・・・・・

2013年7月6日土曜日

世界遺産候補

絹産業遺産群とは・・・

一昨日(7/4)の読売新聞に掲載された記事を紹介いたします。
「世界遺産登録 準備を万全に」と題したもので、これから登録を目指す「富岡製糸場と絹産業遺産群」について、富士山の世界文化遺産登録の動きをもとにしての日本銀行前橋支店長 相良雅幸氏による提言です。

相良氏は、

① 文化遺産といえども、経済振興と環境保全という利害の相反する課題に取り組まなければならない
② ゴミ対策は、当県でも重要な課題
③ 構成資産の関連付けを明確にすることも必要
との課題を示したうえで、

③については、

「異なる市町に所在するうえ、施設相互の関連性が必ずしも明確ではないように思われる」
と述べています。

相良氏の提言に対して、誠に恐れ多いことですが、私の考えを述べさせていただきます。

①の経済振興と環境保全について

 私は、このブログで、「世界遺産に登録されたとしても、当初の1年ないし2年ぐらいは、多くの見学者が来られるが、そのあとは、めっきり減ってしまう、これは、これまでに登録された世界遺産に共通する現象だ」ということを述べさせていただきました。

 そうした一時的な見学客の増加によって、観光収入などの面において、ある程度の経済効果が得られ、それが一時的にせよ、マイナスでなくプラスになれば、それはそれでありがたいことですが、その一時的な効果すら得られそうにない、というのが私の見込みです。

 その理由としては、群馬県は〝温泉県〟であり、有名な温泉がたくさんありますが、絹産業遺産群を構成する市町には、その有名な温泉がなく、地元の宿をメインとする宿泊をセットにしたツアーコースの設定ができないどころか、それぞれが高速道路沿いにあって、自動車での来訪に便利な場所に立地していることです。

 これがどのような意味を持つかといいますと、富士山で弾丸登山が問題になっているようですが、群馬県の絹産業遺産群は、首都圏や中部、東北などから高速道路をつかった〝弾丸ツアー(日帰り)〟が可能だということです。

 また、現時点では、絹産業遺産群の市町には、大型バスで何台も・・・といった団体客が一堂に会して、食べたり飲んだり、宿泊できる場所もありません。←富岡市内にホテルがありますが、どれだけの容量なのか・・・
 いずれにしても、そうした場所は、磯部温泉や伊香保温泉などの旅館やホテルへ・・・ということになります。

 だからといって、これから富岡市や下仁田町で、大きな旅館やホテルをつくろう、と考える人はいないのではないでしょうか。
 一時的なブームで、客足がばったり遠のくことがわかっているのですから。

 いまの富岡市と下仁田町の取り組み状況を見ていますと、経済振興と環境保全の両立どころか、経済振興もできなかった、環境も悪化させてしまった、という共倒れ的な状況になってしまうように思われます。

 すこし、①のテーマからはずれるかもしれませんが、世界遺産に登録されることが地域振興になるのだ!と多くの人々が認識しているように感じます。
 世界遺産登録を打ち出の小槌のように感じている方も見受けられます。

 世界遺産に登録されたとしても、それがゴールでもありませんし、打ち出の小槌によって、小判が打ち出されてくることもないと、私は考えています。

 世界遺産に登録されるにせよ、登録されないにせよ、そのどちらにしても、これからがたいへんなことになるのです。

 たとえば、富岡市の場合、富岡製糸場の保存に対して、これから多額の予算を確保しなければなりません。
 この予算は、文化財保護のために必要な予算であって、世界遺産に登録されない事態になっても必要な予算なのです。

※ 2006年に富岡市教育委員会が発行した「旧富岡製糸場建造物群調査報告書」には、それぞれの建物の写真が細かく掲載されています。この写真を見ますと、建物の傷み具合がよくわかります。
※ 富岡市においては、保存活用計画では、こうした建物をランク分けして、必要な保存のための措置を講じるとしています。

 富岡市民の方々が「世界遺産にならなかったのに、そんなに大金をかけるなんて、実にもったいない」と思っても、貴重な文化財としての保存を図らなくてはなりません。

 じょうずにやらなければ、
 経済振興もだめになる、環境も悪化する、
 そのうえ、これから先、製糸場や荒船風穴を保存するために多額の予算が必要になり、ひいては市町の財政を圧迫する・・・
といった事態になりかねません。

 世界遺産登録をめざそう、という運動をしている方々は、このことを承知したうえでのことなのだろうか・・・と、私はずっと疑問に思っています。

②のゴミ対策について

 これについては、富士山の場合と違って、あまり関係ないのではないかと思います。

③の構成資産の関連付け、その明確化について

 私も、これがいちばんの問題(課題)ではないかと思っています。

 それぞれの構成資産との関連については、下仁田町と群馬県のHPをご覧になってください。
  下仁田町 → http://www.town.shimonita.lg.jp/kyouiku/m01/m01/01.html
  群馬県← http://worldheritage.pref.gunma.jp/ja/ks003.html
 ご覧になって、どのように感じられたでしょうか。

 構成資産の関連付けについて、『なるほど!』とガッテンしていただけたでしょうか。

 私には、つじつま合わせのように感じる部分があります。
 それは、構成資産が図示されていて、相互に矢印で結ばれていますが、その成立と最盛期、終焉の時期等がまちまちであることです。
 また、「遺産群」の「群」に違和感があります。
 「群」という字は、

  (同類のものが)ひとかたまりになっていること

といった意味です。

 絹産業(この「絹産業」も気になりますが)というくくりのなかでは、同類のものといえるかもしれませんし、相互に影響しあって、発展してきたともいえるのでしょうが、
 構成資産の明確な関連性が、私の能力では、なかなか理解できません・・・

2013年7月5日金曜日

地図

環日本海諸国図

きのうは、およそ100年前の下仁田町の地図をもとにして、上信電鉄の前身である上野鉄道が開通したころのようすを紹介しました。

きょうは、1994(平成6)年に富山県が発行した地図を紹介させていただきます。
この環日本海諸国図のおもしろさは、いつも見慣れている地図と位置関係が違うためか、日本海がとても小さく見える気がすることです。

私たちが見慣れている地図は、上が北で下が南、ということになっていて、その位置関係で、それぞれの大陸や島があるという理解をしています。

たとえば、日本で見る世界地図の場合、太平洋が真ん中にあって、右(東)には南北アメリカ大陸、そして左(西)には、中国からヨーロッパ、アフリカの大陸といった位置関係になっています。

地球儀の地球を回して、ある角度から見れば、太平洋は真ん中でないどころか、まったく見えなくなってしまいます。

下の写真は、『中国の上空に上がって、日本の方向を見渡せば、こんな感じかな・・・』と考え、地図上の中国の空から日本海と日本列島の方向を撮ってみました。
私たちは、地質の勉強を通じて、日本海が生まれたことなどを知っていますが、こうして見てみると、

 なんと日本海の小さいことか!
 ちょっと大きめな湖ではないか!

と、私は思うのです。

ずっと前に中国に行ったことがあります。
レセプションでの中国側の方々のあいさつには、必ず「(日本と中国は)一衣帯水」といった言葉が使われていました。
ちょっと大きめの湖の反対側に中国と日本が位置していることを、うまく表現した言葉であったといえます。

いまは、衛星からの画像などによって、地球の美しい姿を簡単に見ることができますし、正確な地図によって、それぞれの国と国の位置関係がよくわかる時代になりました。

一衣帯水という言葉が生まれたのは、いつのことであったのかについては調べておりませんが、おそらく遠い昔のことであっただろうと思います。

昔の人々のほうが現代の我々より正確に位置関係を把握していて、その関係を的確に表現-一衣帯水-する能力に優れていたのではないか、と思います。

この日本海を、遣隋使や遣唐使、鑑真などが命がけで往ったり来たりしました。
このような文化交流の反面で、元(げん)の〝軍艦〟がやってきたり、倭寇といわれるものがあちこちに出没したり、といった時代もありましたし、バルチック艦隊との戦い-日本海海戦-の舞台にもなりました。
戦前には、日本の軍艦、兵士が日本海を渡って、朝鮮や中国に行ったこともありました。

これは、尖閣諸島になります。
ちょっと大きめな湖程度の距離なのですから、「おーい、元気かい?」と声をかければ、それぞれの言葉で「元気だよ!」という声がかえってくるのではないでしょうか。
 
    난 괜찮아!」
   「我很好!」
 
これからもずっとお隣さんどうしで、仲よく暮らしていきたいものですね。
 
きょうは、何かを見るとき、いつもと違う視点を持つことによって、違ったイメージを得ることができる、そして、違ったイメージを得ることによって、それまでとは違った考えを持つことができるのではないか、ということを述べさせていただきました。

2013年7月4日木曜日

上信電鉄

初めて列車が走ったころ
-トンネルがふたつあった!?-

私は、むかしの地図を眺めるのが大好きです。
江戸期の古地図といわれるものから明治期、大正期、昭和期のものを広げて、道路や寺社、家並みなどを眺め、地図が作製された時代を想像するのですが、なんともいえない楽しさがあります。

1900(明治33)年7月測圖、第一師團司令部が作成した「下仁田町」の地図を眺めていたとき・・・

    驚いたことに、トンネルがふたつも!!??

         下の地図の  と  をご覧ください。 


「上信電鉄百年史」によれば、
1896(明治29)年4月26日 起工式を挙行。全線の工事を開始。
1897(明治30)年9月25日 現在の上信電鉄の前身である〝上野鉄道株式会社〟の高崎駅と下仁田駅の全区間の工事が終わり、全通式を盛大に挙行。(挙行式から1年半後に全通←本多注)
となっています。

ところが、1896(明治29)年には、日清戦争後の不況もあって、「下仁田までの工事をせず、工事は南蛇井まで」とする鉄道計画縮小案が出されました。
この縮小案に対して、南蛇井から下仁田方面の方々-主に養蚕、蚕糸業の関係者-が「当初の計画どおり下仁田まで鉄道を!」と誘致運動を行い、当初の計画どおり下仁田までの工事が行われることになりました。

「上信電鉄百年史」に、当時の鉄道計画が掲載されていますが、そこにはつぎのとおり書かれています。

高崎~南蛇井間は、烏川と鏑川に架ける三大橋のほかは、工事が容易であるが、
 「南蛇井ヨリ下仁田ニ至ル三哩間ハ鏑川ノ北岸ニ近接シ山脚ノ傾斜ヲ迂回シ水流ヲ撓リテ蜿蜒ス岩石ヲ開鑿」するため、
 「難工事尠ナカラス」

南蛇井駅・下仁田駅間(現在の駅名でいえば、千平駅・下仁田駅間)は、たいへんな工事であるため、建設予算の面からもできれば工事をやめたい、という思惑が一部にあったのかもしれませんね。
ましてや、トンネルをふたつ掘り、山にへばりつくように線路をつくっていく区間ですので、不況になり、鉄道の建設資金が不足してきたことでもあるし、できれば施工したくないな・・・といったところが大方の意見だったのでしょうが、その意見を跳ね返して、下仁田まで鉄道をひいた下仁田方面の先人は、とても偉かったし、とてもがんばられたと思います。

もし、このとき南蛇井どまりになっていたとすれば、そのまま南蛇井どまりになり、下仁田に駅ができなかった、ということになっていたかもしれません。
いま、下仁田方面に住んでいる方々は、上野鉄道建設時にがんばっていただいた下仁田方面の先人には、感謝しても感謝しきれないかもしれません。

さて、私が知る限りでは、上野鉄道の全通後、公が発行した地図での路線図としては、これがいちばん直近のものです。
私は、この地図の路線が上野鉄道が全通した時点でのもの、といって差し支えないと考えています。

下の地図は、2002(平成14)年発行、国土地理院のものです。
1900(明治33)年7月測圖、第一師團司令部が作成した「下仁田町」の地図から100年後の地図ということになります。

「上信電鉄百年史」には、

  道路との交差部解消工事の記述がありません。
  100年前と同じ位置かどうか・・・等高線の感じでは、100年前の位置と同じと考えてよさそうですが、はっきりした位置が記載されていません。。
③  トンネル工事は難工事中の難工事ですが、このトンネル工事、その後の改良工事等に関する記述もありません。

といったことで、
私には当時の状況がよくわかりませんが、100年の間に変化しているようすをご紹介させていただきました。

    むかしの地図を眺めてみませんか。
むかしの地図は、その時代の情報の宝庫であり、眺める方の視点によっては、おもしろいことを発見することができます

2013年7月3日水曜日

応援団

世界遺産候補 史跡荒船風穴・下仁田ジオ
応援団解説員養成学習会

きのう(7/2)の午後、荒船風穴において、学習会の現地研修が行われました。
きのうの学習会は、前回の現地研修に引き続いて、それぞれがガイドになったり、見学者になっての実習でした。

学習会の資料として、『解説教本』が配布されていますが、先に
 解説教本にある荒船風穴に関する内容をふまえたうえで、
  それぞれの解説員が
  それぞれの言葉で、
  ご見学に訪れた方々にわかりやすく説明を、
との方針が示されていたため、参加者それぞれが違ったアプローチで、荒船風穴を解説する工夫をしていました。

たとえば、中学生のとき、神津牧場へキャンプで来た際、2号風穴のなかで涼んだ、という思い出を枕にされる方がいれば、養蚕が盛んであったころのこと、また養蚕の歴史などといったことを枕にされる方がいて、それぞれにおもしろい解説でした。

私は、
   風穴の冷気を利用した蚕種の貯蔵事業をやろう! 
 と決意して、
  この事業に果敢に取り組んだ明治の人々、その熱い思い-熱気-
を感じていただける内容を基本にして、ガイドをさせていただきたいと考えております。

下の写真は、2号風穴の通路側の石積みです。
通路側の石積みは、風穴内の冷気を外に逃がさないようにするため、石と石のすき間にセメントを詰めています。

苔むした石積みと目地を見ていますと、

 2号風穴が完成した明治41(1908)年のころ、
 どんな時代であったのだろうか、
 風穴による蚕種の貯蔵事業に携わった方々は、どのような思いで、この事業に取り組んだのであろうか、
 この当時の人々の暮らし向き、それはどのようなものであったのだろうか・・・など

といったことを考えてしまいます。
上の写真は、番舎跡から3号風穴を撮影したものです。

荒船風穴では、風穴の歴史や冷風といったものはもちろんですが、それぞれのガイドの語り口なども楽しんでいただけるのではないかと思います。

  荒船風穴の見学申し込み先 → http://www.town.shimonita.lg.jp/kyouiku/m01/m01/02.html

どうぞ、荒船風穴にお出かけください。

2013年7月2日火曜日

応援団

「一期一会のおもてなし」

昨夜、富岡市内において、〝おもてなし№1〟の旅館として有名な加賀屋の取締役副社長 小田 與之彦(おだ よしひこ)さんの講演がありました。

和倉温泉の加賀屋といえば、業界紙主催の旅行社等へのアンケート調査で、
  33年連続おもてなし日本一になっている旅館です。

昨夜の講演で、小田さんは、

  このアンケート調査は、おもてなし・料理・施設・企画の4部門があります。
  加賀屋は、おもてなしが1位、料理・施設・企画が2位で、総合1位という栄誉をいただきました。

と述べられました。

ずっと前、「加賀屋-台湾に出店」といったテレビ番組を視聴したことがあります。
そのとき、接客に対する徹底した従業員教育等が紹介され、それ以来、私はなんとすばらしい旅館なのだろうと興味を持っていました。

主催された榎本義法(えのもと よしのり)さんからは、

 富岡に何度もお出かけいただくためには、富岡製糸場があるだけでなく、市民の一人ひとりが〝おもてなしの心〟で、富岡市に来られた方々に接する、これがとても大事なことだと考え、

 日本一のおもてなしの宿・加賀屋の〝おもてなしの神髄〟を知っていただきたい

との思いで、この講演会を企画しましたとのごあいさつがありました。

私は、榎本さんのお考えに同感で、以前にこのブログで、

  富岡製糸場の場合、煉瓦の倉庫だけを何度も見たいと思うでしょうか。
  荒船風穴の場合、冷風が吹き出ているだけの石垣を何度も見たいと思うでしょうか。
  一度見れば、十分ではないでしょうか。

といったことを書きましたが、

  その土地ならではの魅力+おもてなしの心があってこそ、
  リピーターが増える

と私は考えています。

私は、ジオパーク下仁田のガイドをさせていただいているのですが、この講演会のことをお聞きして、ガイドをする際に役立てられれば・・・との思いで、すぐに参加申し込みをさせていただきました。

小田さんの講演は、全国に数多ある旅館のなかで、〝おもてなし№1〟の宿として、その栄誉を守り続け、サービスのあり方を日々模索し、進化を続ける加賀屋の接客、その真髄をお話しいただきました。
とてもすばらしいお話しでした。

昨夜の講演をお聴きして、これからジオサイトのガイドを行う際、私が参考にさせていただきたいと思ったこと、そのいくつかをご紹介いたします。

① お客様の事前情報をしっかり把握しておくこと
 →年齢構成や男女の人数をはじめ、どこから来られる方々か、といったことを事前に把握しておけば、ご案内するときの準備をきちんとすることができる、そのためにはジオツアー受け入れ時の対応、ガイドへの緊密な連絡が重要なことであると、と私は思いました。

② つねに感謝の気持ちを持ち続けること。
 →わざわざ遠い下仁田町までお出かけいただいたうえ、ジオサイトの見学をはじめとして、お昼には町内の食堂に寄っていただいたり、ジオ関連商品などをおみやげにお買い求めいただくわけで、ほんとうにありがたいことだと思わなくてはいけない、と私は思いました。

③ 「ありません」「できません」といったことを即答しないこと。
 →先日、ある講演会後の質疑応答のなかで、町職員の方が、ある行動への努力を検討するとも言わず、言下に「行けません」と答えましたが、どのような場面でもこのような言い方をしますと、私のこれまでの経験では、これを言われた側は「あっ、この人は、やる気がない人だな」と思い、とても印象が悪くなります。
ジオツアーに来られた方々のご要望に対して、すぐに「できない」と答えるのではなく、「どうしたらできるか」をつねに考えて、必要な対応を図るべきである、と私は思いました。

私の今後のガイド活動を展開するうえで、このほかにもたくさんすばらしいお話しがあるのですが、それは講演をお聴きした私だけのものにしておきたいと思っています。

あしからず。

おもてなしの心、おもてなしの神髄については、

     笑顔で気働き

をモットーに〝おもてなし日本一の宿〟の連続記録を更新中の加賀屋にご宿泊いただだいて、直に「なるほど!」と感じていただければ幸いです。

      加賀屋のホームページ →   http://www.kagaya.co.jp/