たいへん迂闊なことでした
きのうのブログ記事(↓)
現代であれば・・・鉄道ファン、それも撮り鉄だろうか?
http://geogunma.blogspot.jp/2016/01/blog-post_29.html |
で、
あすのブログでは、上野名蹟図誌の図を見ていて、もっと私が驚いたことを紹介したいと思っています。
と予告させていただきましたが、その驚いたことを紹介いたします。 いったいなにに驚いたかということですが、この図を見て、
これは、私の生家から見た大日堂と遍照寺だ!!
ということがわかったからです。
私の生家は、鐘楼門前の道を通り、図の右下にある橋を渡り、大日堂と遍照寺を見下ろす位置にありました。
正確な年代は把握していませんが、この地で江戸時代からご先祖様が暮らしていたと父母から聞いていましたので、この図が描かれた明治30年代には、この図を描いたと思われる地に私の生家があったことになります。
それと、もうひとつ驚いたのは、道路が鐘楼門前で折れ曲がっていることです。
撮影:2015.3.31(火) |
境内が道路になった時期は知りませんが、すくなくても上野名蹟図誌の図が描かれていたころは、この鐘楼門前を右に折れ曲がっていた道しかなかったということになります。
私が子どものころには、鐘楼門わきの道路を往還とよび、こちらがメインの道路になっていました。
私が子どものころ、すでにバス路線があって、富岡駅や安中駅、磯部駅を結んでいましたが、上の図にある鐘楼門前の道路を歩いて、時折行商の方が荷物を担いで、富岡方面から歩いてきたこともありました。
上の図にある鐘楼門前の道路は、かつて大日堂と遍照寺のある黒岩村と富岡町(当時)を結ぶ幹線道路であったのでしょう。
ずいぶん前のことになりますが、この道を私の生家から歩いて、富岡に行ったことがあります。
そのころでさえ荒れ果てていましたが、ある程度の道幅もまだ確認できましたし、ところどころに荷車がすれ違うためのものか、待避所らしきものもあって、かつては多くの人々が行き交った道であったらしい雰囲気がいくらか残っていました。
ずいぶん前でも荒れ果てていましたので、いまはだれも歩くことがないでしょうし、もっと荒れ果ててしまっていると思います。
新しい道がつくられ、それが便利なものであれば、そちらが利用され、それまで利用されていた道は忘れ去られてしまうこと、これはいたし方ないことでありますが、とてもさびしいものを感じます。
撮影:2015.3.31(火) |
図や資料については、やはり細かく見ていく、
それも原本(復刻版が原本かどうかは別にして・・・)に
あたってが基本である
ということを再認識できた一件となりました
それにしても、大日堂と遍照寺の図は、群馬県北甘楽郡史に掲載されている図で何度も何度も見ていたのですが、この図が描かれたであろう位置をはじめ、当時の道路事情について、なにも気づかなかったことを迂闊なことであったと大いに恥じているところです。
北甘楽郡史に掲載されている図が小さくて不鮮明であったとしても、注意深くよく見れば、わかったはずなのに・・・と、驚いたあと大いに反省しているところです。
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