2014年7月1日火曜日

上毛新聞-視点 オピニオン21

2014.6.22に掲載していただきました

昨年から掲載していただいている「視点 オピニオン21」については、今回の掲載が5回目になりました。

今回の「知恵と熱意 先人に学び地域 豊かに」では、
 
下仁田こんにゃく → 蒟蒻平八と呼ばれた茂木平八氏
下仁田ねぎ → 戦後の品種改良の中心的人物である松浦源一郎氏

を例にさせていただいて、
 
先人の知恵と熱意をよく学んだうえで、新しい視点と柔らかな発想力で、地域にある自然や伝統文化などを見直せば、これからの時代を切り開くヒントをはじめ、地方で心豊かに暮らせる道筋が、きっと見つかると私は考えています。

と結ばせていただきました。

以下は、上毛新聞に掲載していただいた全文です。
上毛新聞のHP
http://www.jomo-news.co.jp/ns/series/4314035074836951/opinion_detail.html
  にも掲載されています。

知恵と熱意 先人に学び地域 豊かに
下仁田自然学校運営委員 本多優二


  今、南牧村をはじめ、多くの市町村が急激な人口減少と少子高齢化に直面するなど、たいへん困難な状況に向かっているように感じられます。ですが、困難な状況に陥ったことは、昔もたくさんありました。その困難な状況を、先人は知恵と熱意で、常に克服し、それぞれの時代を築いてきました。

 たとえば、いまや全国的に有名な下仁田ネギと下仁田こんにゃくですが、これも先人のたゆまぬ努力のたまものであり、多くの人々が築き上げてきた結果なのです。

 下仁田ネギの場合、先の大戦前後に、品質が大きく低下するという危機に直面しました。これを戦後の混乱期に、松浦源一郎氏(下仁田町馬山)らが品種改良に取り組み、下仁田ネギを復活させるとともに、さらによい下仁田ネギをつくりました。

 また、明治期には南牧村と下仁田町で、こんにゃく栽培が盛んになりますが、これは「蒟蒻(こんにゃく)平八」と呼ばれた茂木平八氏の熱意によるものでした。

 『北甘楽郡史』(本多亀三著)は「月形村大字大日向に茂木平八という老農あり。蒟蒻栽培の利あることを家ごとに説き、人ごとに諭し、敢(あ)へて餘事(よじ)を語らざりし故、人之を綽號(しゃくごう)して蒟蒻平八といひき。(略)同地方の人々も、大いにその利あるを知り、南西牧(なんさいもく)は勿論(もちろん)、本邦到る所競うて之を栽培し、以(も)つて今日の盛況を呈するに至れるなり」と、茂木氏の活躍を述べています。

 明治期に茂木氏が、こんにゃく栽培を盛んにしたからこそ、水車を利用しての精粉工場や食品加工の工場も盛んになり、南牧村や下仁田町が繁栄する大きな礎がつくられることになりました。

 戦後の混乱期に下仁田ネギを復活、改良した松浦氏、明治20年代に蒟蒻平八と呼ばれるほど熱心にこんにゃく栽培を広めた茂木氏が生きた時代は、それぞれ第2次世界大戦、日清戦争があり、激動と混乱の厳しい時代でした。

 厳しい時代のなかで、豊かな地域づくりをめざして特産物をつくり、あるいは特産物を守り、改良することによって、困難な状況を打ち破った先人の知恵と熱意を学び、今こそ、私たちが未来のために、何ができるかをよく考えてみるべきではないでしょうか。

 厳しい時代状況であればこそ、先人の知恵と熱意をよく学んだうえで、新しい視点と柔らかな発想力で、地域にある自然や伝統文化などを見直せば、これからの時代を切り開くヒントをはじめ、地方で心豊かに暮らせる道筋が、きっと見つかると私は考えています。
 
     
松浦源一郎氏に関しては、下仁田自然学校のくりっぺ第70号に書かせていただいたり、
私のブログ
  http://geogunma.blogspot.jp/2013/05/blog-post_3.html
   下仁田ねぎ     ね ぎ の 苗
で紹介させていただいていますが、

茂木平八氏については、これまでに紹介していませんでしたので、「北甘楽郡史」に記載されている関係部分全体を引用(新聞では、紙面の都合で、全文は掲載できませんでした)して、茂木平八氏が生きた時代をお考えいただきたいと思います。
昭和4年発行(復刻版) 本多亀三著
                  
第八節 蒟蒻栽培    (北甘楽郡史 198199頁)

今より凡そ四百餘年前大日向村の茂木平兵衛といふ人の祖先、和惣兵衛尉正峯といへる人、或る時西国を巡遊して紀州に至りける時、或る村落にて、蒟蒻の良品を見、その數塊を請ひ得てかへり、之を畑地に植付けたり。

是れ永正二年乙丑(紀元二一六五)の春にして、後柏原帝の御代なり。それより同地方に傳わり、各家皆之を菜箸するに至りたれども、元より自家の食料とするのみなりき。

然るに、明治二十二三年頃より、俄かにこの物の價昂騰し、蒟蒻三駄は、米二駄に相當すといふ珍しき價格出でたり。

時に、月形村大字大日向に茂木平八という老農あり。

蒟蒻栽培の利あることを家ごとに説き、人ごとに諭し、敢へて餘事を語らざりし故、人之を綽號して蒟蒻平八といひき。

この平八氏、幼名を甲斐助といひ、天保八年正月十五日、月形村大字大日向に生る。

性謹直にして剛毅、尤も事の利害を察知する明ありき。

されば、茶の栽培を諸人に勸め、秋蠶の飼育を唱導し、以つて村の利潤を計りしなり。

その蒟蒻を作り始めたるは、明治二十六年にして、先づ初年には僅かに三畝歩の地を之に充て、それより穫たる蒟蒻を種として貯藏し、翌年春に至り、地積を二倍にして之を植付け、秋期に至りて之を掘採り、貯へて第三年の種薯とし、斯くして五ヶ年の後に至りて計算せしに、蒟蒻百二十駄(生玉十六貫二俵を一駄とす)を實収したり。

ここに於いて、同地方の人々も、大いにその利あるを知り、南西牧は勿論、本邦到る所競うて之を栽培し、以つて今日の盛況を呈するに至れるなり。

翁、性慈善を好み、或は落魄せる舊友を見ては之を慰藉し、或は公共のために金品を寄附し、或は村民に率先して貯蓄會を設くる等、その美舉頗る多し。

されば明治四十一年七月北甘楽郡農會より、同年十二月大日本農會より、何れも表彰せられたり。(甘楽産業叢談)
綽號→しゃくごう(他人がつけた呼び名の意味)

もし・・・という仮定で考えるとき、この時代に蒟蒻平八と呼ばれるほど熱心にこんにゃくいもの栽培を勧める人物が南牧村にいなかったとしたら、その後の南牧村や下仁田町での盛んなこんにゃくいも栽培が生まれたかどうか、おそらく生まれなかったのではないだろうか・・・と、私は思うのです。

わが国が明治という時代になって、人々が江戸時代の領民から国家の民、国民になったわけですが、兵役と租税負担という国民としての義務(江戸時代の農民には、兵役義務はなく、戦があれば武士が担当すること、という時代からの大きな転換があったのが明治でした)が課される厳しい時代 -わが国が日清戦争に向かっていたときで、国民は兵役と重税、その厳しさにあえいえでいました-にあって、

懸命に生き抜いてきた先人のひとりが蒟蒻平八氏であり、
地域の特性を生かして、豊かな暮らしを築きあげるには、どうしたらよいかを真剣に考え、
その思考から得られた結論を実践した人物、
それが蒟蒻平八と呼ばれた茂木平八氏でした。

こんにゃくいも・ねぎを
 下仁田こんにゃく・下仁田ねぎ  という一大ブランドにして、

これを広く世の中に知らしめた先人の努力があってこそ、これまでの南牧村や下仁田町の発展のもと、そのひとつがあったということを私たちはよく学んだうえで、これからの時代にとって必要なこと、必要なものは何かを私たちが考えていく、いまはそういう時代になってきていると、私は考えています。

※ 茂木平八氏の「秋蚕飼育の唱導」に関しては、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の解説のまちがいのひとつとして、別の機会に述べさせていただこうと考えています。

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