初めて列車が走ったころ
-トンネルがふたつあった!?-
私は、むかしの地図を眺めるのが大好きです。
江戸期の古地図といわれるものから明治期、大正期、昭和期のものを広げて、道路や寺社、家並みなどを眺め、地図が作製された時代を想像するのですが、なんともいえない楽しさがあります。
1900(明治33)年7月測圖、第一師團司令部が作成した「下仁田町」の地図を眺めていたとき・・・
驚いたことに、トンネルがふたつも!!??
下の地図の ② と ③ をご覧ください。
「上信電鉄百年史」によれば、
1896(明治29)年4月26日 起工式を挙行。全線の工事を開始。
1897(明治30)年9月25日 現在の上信電鉄の前身である〝上野鉄道株式会社〟の高崎駅と下仁田駅の全区間の工事が終わり、全通式を盛大に挙行。(挙行式から1年半後に全通←本多注)
となっています。
ところが、1896(明治29)年には、日清戦争後の不況もあって、「下仁田までの工事をせず、工事は南蛇井まで」とする鉄道計画縮小案が出されました。
この縮小案に対して、南蛇井から下仁田方面の方々-主に養蚕、蚕糸業の関係者-が「当初の計画どおり下仁田まで鉄道を!」と誘致運動を行い、当初の計画どおり下仁田までの工事が行われることになりました。
「上信電鉄百年史」に、当時の鉄道計画が掲載されていますが、そこにはつぎのとおり書かれています。
高崎~南蛇井間は、烏川と鏑川に架ける三大橋のほかは、工事が容易であるが、
「南蛇井ヨリ下仁田ニ至ル三哩間ハ鏑川ノ北岸ニ近接シ山脚ノ傾斜ヲ迂回シ水流ヲ撓リテ蜿蜒ス岩石ヲ開鑿」するため、
「難工事尠ナカラス」
南蛇井駅・下仁田駅間(現在の駅名でいえば、千平駅・下仁田駅間)は、たいへんな工事であるため、建設予算の面からもできれば工事をやめたい、という思惑が一部にあったのかもしれませんね。
ましてや、トンネルをふたつ掘り、山にへばりつくように線路をつくっていく区間ですので、不況になり、鉄道の建設資金が不足してきたことでもあるし、できれば施工したくないな・・・といったところが大方の意見だったのでしょうが、その意見を跳ね返して、下仁田まで鉄道をひいた下仁田方面の先人は、とても偉かったし、とてもがんばられたと思います。
もし、このとき南蛇井どまりになっていたとすれば、そのまま南蛇井どまりになり、下仁田に駅ができなかった、ということになっていたかもしれません。
いま、下仁田方面に住んでいる方々は、上野鉄道建設時にがんばっていただいた下仁田方面の先人には、感謝しても感謝しきれないかもしれません。
さて、私が知る限りでは、上野鉄道の全通後、公が発行した地図での路線図としては、これがいちばん直近のものです。
私は、この地図の路線が上野鉄道が全通した時点でのもの、といって差し支えないと考えています。
下の地図は、2002(平成14)年発行、国土地理院のものです。
1900(明治33)年7月測圖、第一師團司令部が作成した「下仁田町」の地図から100年後の地図ということになります。
「上信電鉄百年史」には、
① 道路との交差部解消工事の記述がありません。
② 100年前と同じ位置かどうか・・・等高線の感じでは、100年前の位置と同じと考えてよさそうですが、はっきりした位置が記載されていません。。
③ トンネル工事は難工事中の難工事ですが、このトンネル工事、その後の改良工事等に関する記述もありません。
といったことで、
私には当時の状況がよくわかりませんが、100年の間に変化しているようすをご紹介させていただきました。
むかしの地図を眺めてみませんか。
むかしの地図は、その時代の情報の宝庫であり、眺める方の視点によっては、おもしろいことを発見することができます
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