2020年5月16日土曜日

陸軍中野学校終焉之地

群馬県立富岡高等学校・
富岡市立社会教育館

現在の群馬県立富岡高等学校が富岡中学校といわれていた戦時中、それも日本が戦争に敗ける前の数か月間、富岡中学校に陸軍中野学校が移転(疎開)してきました。
終焉之地の石碑は、群馬県立富岡高等学校の敷地内にあります。
※ 敷地内に入り石碑を見る際は、
学校の管理者の許可を得てからにしてください。
終焉之地の石碑については、つぎの上毛新聞に移転した経緯が紹介されています。
この記事(↑)のもとになったのは、上毛新聞で連載された記事(↓)でした。
この連載記事は、とても興味深く読ませていただきました。
そして、2020.5.14の上毛新聞には、つぎの投書が掲載されていました。
この方の思い出(↑)に、
  一ノ宮にある社会教育館 (旧東国敬神道場)に軍人さんが宿泊・・・
とあります。
現在の富岡市立社会教育館(↓)です。
貫前神社の隣にある古い建物で、かつて(戦前)は精神修養の場として、ここで多くの青少年が研修を受けていたそうです。
昭和50年代はじめのことになりますが、私は若いとき社会教育館(当時は、群馬県立)に勤務していたことがあります。
そのとき、社会教育館で中野学校の卒業生という方(3名)にお会いしました。
そのときのノート類を探したのですが、どこにやってしまったのか見つかりません。
うろ覚えの記憶のいくつかを紹介しますと、

〇 私たちは陸軍中野学校で学んでいて、終戦間際の一時期、ここ(県立社会教育館)で寝泊まりをしていました。
〇 戦後30年の節目に、富岡で同窓会を開こうと考えています。
〇 そのときは、ここを利用させていただきたいが、利用させていただけますか。

といった内容での来館でした。

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       〇 → 中野学校卒業生の方々  □ → 私
□ 社会教育館では、寝泊まりだけだったのですか。

〇 大きな和室の部屋(昭和50年代には、「談話室」といっていた部屋、いま(2020.4.16現在)も室名は「談話室」になっています)に、かなり高性能な無線機があり、そこで情報を収集していたり、そのほかいろいろなことをしていました。

□ 無線機での情報収集は、皆さんが交代で行っていたのですか。

〇 そうです。

□ 外国語について、その対応はどのようにされていたのですか。

〇 みんながある程度は、外国語ができたので、それはだいじょうぶでした。どうしてもわからないときは、よく外国語ができる者を呼んできました。
無線機が置いてあったという部屋(↑)になります。
この画像奥の黒板が置かれているあたりに無線機が置かれていたということでした。
上毛新聞の記事を読み、昭和50年代の来館受け入れ記録が残されていれば、それを閲覧させていただこうと思い、富岡市立社会教育館を訪問したのですが、群馬県から富岡市に施設を移管したこともあってか、またほぼ半世紀前の書類が残っているはずががなく、当時の記録はないとのことでした。
群馬県立社会教育館時代に発行していた機関紙「蓬ヶ丘」が保存してあるとのことで、それを見せていただいたところ、なんと若いときの私が掲載されている頁を見つけました。
あとになって、何かの役に立つだろうと思い、いろいろなことをメモして、それを大事に持っていたはずなのですが、昭和50年代のメモ・資料等がまったく見つかりません。
昭和50年代に出会った中野学校卒業生の方々は、いまはどのように過ごされているでしょうか。
このブログを見て、
 ご本人様から「あのとき社会教育館に行った」とか、
 ご家族様から「私の父が社会教育館に行った」とか・・・
の情報をお寄せいただければ、たいへんうれしく思います。
そして、富岡高等学校や社会教育館で過ごした日々を教えていただきたい、と思っているところです。

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