2013年6月28日金曜日

繭と生糸は日本一

下 仁 田 社

明治期の製糸業における群馬県の特徴は、「座繰(ざぐり)」と組合製糸が発展したことでした。
長野県は、群馬県と違って、「器械取(きかいどり)」が発展しました。

群馬県は、明治期の終わりまで、座繰が主流を占めて、あまり器械製糸の方法は普及しませんでした。

なぜ、群馬県は、座繰が普及したかということですが・・・

座繰であれば、家にいて、ひとりで繭から生糸をつくることができ、ほかの家事や作業をしながら、ある程度の収入が得られたために、規律の厳しい製糸工場に働きに出たがらなかった、といわれています。

下仁田社は、1893(明治26)年に甘楽社から分かれて、発足した組合製糸でした。
「群馬の生糸(みやま文庫)」に掲載されている表を引用させていただきました。

この表は、明治34年(1901)ごろの横浜に運ばれた生糸の量を荷主別にまとめたものです。

5番目に下仁田社があり、2,500個となっています。
2番目が碓氷社の6,000個、3番目が甘楽社の5,000個となっています。

碓氷社・甘楽社・下仁田社を「南三社(みなみさんしゃ)」といい、南三社が明治期の生糸づくり、それも輸出に果たした功績は、たいへん大きなものがありました。

富岡製糸場は、20番目で1,00個となっています。

富岡製糸場が払い下げになり、民間資本での経営になりますが、こういった民間資本による製糸工場を営業製糸といいます。
前橋には、多くの製糸工場がありましたが、それらは営業製糸といわれるもので、民間資本による経営でした。

南三社では、組合員である養蚕農家が持ち込む座繰でとった糸を検査して、それを品質ごとにまとめて、横浜から輸出していました。
養蚕農家の女性たちにとっては、わざわざ規律が厳しい製糸工場で働かなくても、家で働くことができ、ある程度の収入が得られたため、器械取に移行するのが遅れたともいわれています。

1905(明治38)年から荒船風穴で蚕種の冷蔵貯蔵を始める庭屋静太郎は、この下仁田社の役員をしています。

下仁田社をはじめとする組合製糸の隆盛といった空気のなかで、庭屋静太郎は、さらに養蚕を発展させ、ひいては生糸の増産を図ろう、そして、豊かな国になろうという熱意で、荒船風穴での冷蔵貯蔵事業を始めたことでしょう。

さて、下仁田社のことですが、明治の発足から大正、昭和の時代において、さまざまな工夫と努力によって、経営を続けますが・・・

戦時中における組合製糸の合同を経て、戦後は群馬蚕糸製造株式会社(群蚕)下仁田工場になって・・・
やがて、終焉を迎えることになります。

きょうは、明治期には、下仁田町に日本の経済を支えた輸出産業の一大工場があり、それを支えたのは地域の人々であったという、下仁田町の先人のすばらしい活躍を紹介させていただきました。

※ 下仁田社をはじめ、南三社のことについては、さまざまな本が出版されていますので、詳細な内容をお知りになりたい方は、それらをお読みください。

※ 地図は、1957(昭和32)年測図の「下仁田町都市計画図」の一部です。
いまから半世紀以上も前に、こんな街路事業を計画していたわけですが、これらのすべてが完成していれば、いまとは違った下仁田町になっていたのではないか・・・と、そんなことも考えてしまいます。

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