2016年2月26日金曜日

これって 贔屓の引き倒し・・・

のようなものかな?

上毛新聞の投書欄に掲載された
 群馬の三名泉と楫取素彦
を読ませていただきました。
投書された方は、
 熊谷県令の楫取が手書きの文書を戸長らに送った
とお考えになっていて、
 すべての県民の幸せを考えて、手間を惜しまず行政に尽くした初代県令の姿がしのばれる
と投書の文章をしめくくっています。
第二次群馬県の初代県令になった楫取は、
 名県令といわれた
と群馬県史に記載されているとおり、立派な人物であったかもしれません。
しかし、群馬県庁での事務処理の流れ(私の場合、明治のときでなく、昭和・平成時代のことになりますが・・・)を知る者として、私には県令自らが各戸長らに温泉に関する通達を送付するとは考えられないのです。
これ(↑)は、群馬県の行政機構であり、熊谷県のものではありませんが、おそらくこれと同じような組織であったことでしょう。
楫取は、立派な県令であったとのことですので、事務吏員に通達類の清書や発送を任せず、自らが通達文書を作成したりしていたかもしれませんが、私が想像するには、県令である楫取がいろいろ事務吏員に指示することはあっても、自らが各戸長らへの通達文書を作成することはありえないのではないかと思うのです。
もちろん、投書された方のお宅に残されている文書の筆跡鑑定などを行って、それが楫取の筆になる文書である、ということもあり得るでしょう。
そうなれば、楫取の県令時代の執務ぶりもわかって、さらに名県令であったという評価を得ることになるかもしれません。
明治はじめのころの市町村数をはじめ、群馬県や熊谷県などの設置と廃止などについては、群馬県史に詳しく掲載されています。
私が群馬県庁に勤務していた時代で、平成の市町村合併が行われるまで、県内の市町村数は70市町村でした。
県庁から知事名で送る各市町村長あての通知文書は、当該業務を担当する事務吏員が発議し、所要の内部手続き(決裁)を経て、浄書、印刷、公印押印、発送となります。
こういった流れそのものの基本は、むかしから変わらず、連綿と受け継がれてきているものです。
むかしの書類を調べるため、書庫に行き、毛筆で書かれた達筆な起案文書綴りを手にしたことがありますが、明治、大正、昭和という時代にあって、文書施行事務の流れ、その基本は、私が勤務していた時代と変わっていないものです。
楫取の時代には、和文タイプライターもなかったでしょうし、複写機もなく、ワードやエクセルで・・・、といったソフト、PCもありませんでしたので、文書は毛筆か万年筆(つまり、全部が手書き)で作成せざるを得なかったといってよいでしょう。

私は、投書された方のお気持ち、お考えをどうのこうのというつもりはまったくありません。

しかし、
 歴史上の人物や事件については、
  美化せず、貶めずを基本にすべきではないかと私は考えます。

前述しましたように、楫取の手書きの通達であることが明らかになれば、それはたいへんすばらしいことであり、楫取は投書された方がお考えのとおりの人物といってよいでしょう。
この記事(↑)は、投書が掲載された日に掲載されたものです。

楫取に対する投書と銅像計画の記事を読んで、歴史上の人物に対する評価、それぞれの人々の思いについて、たいへん考えさせられるものがありました。

私の楫取に対する評価は、つぎのブログ記事(←)を参考にしていただければ幸いです。

立派な方であったのでしょうけれど・・・
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」・楫取素彦(かとり もとひこ)
http://geogunma.blogspot.jp/2015/10/blog-post_13.html

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