2013年3月31日日曜日

ジオサイト-中小坂鉄山

      新島襄と中小坂鉄山

新島襄は、明治7(1874)年11月26日にアメリカから帰国し、11月28日から12月24日までのおよそ1か月を安中で過ごします。
新島襄にとっては、幕末の元治元(1864)年6月14日(西暦では、7月17日)に函館から国外に出て以来、10年ぶりの日本ということになります。

先日、中小坂鉄山研究会の岩井実さんから「中小坂鉄山ニュース№22」をいただきました。

このニュースには、新島襄が12月2日・3日に妙義山を経て、甘楽郡小坂村(現在の下仁田町中小坂)の鉄山を見学したという記事が掲載されています。

幕末に渡米した新島襄は、アメリカでいろいろなことに関心を持つのですが、そのひとつに鉱山への関心がありました。
10年ぶりに帰国し、長旅の疲れもあったと思うのですが、その疲れをものともせずといった感じで、帰国後にすぐ鉄山の見学に出向いたことは、新島襄の鉄山(鉱山)への深い関心がうかがえます。

この岩波文庫「新島襄書簡集」の略年譜では、
1867年 25歳のとき → 「自然科学に最も興味を有す」
1868年 26歳のとき → 「夏季休暇を利用して登山を試み、また各地の鉱山を見学す」
1869年 27歳のとき → 「春期休暇を利用し製銃所・溶鉱所・綿布製造所・洋紙製造所等を見学す」
1870年 28歳のとき → 「アーモスト・カレッジ卒業B・S(理学士)」
となっていて、新島襄がアメリカにおいて、深い関心を寄せていたことがどのようなものであったかがよくわかります。

おそらく、新島襄にとって、豊かなくにづくりのためには、工業の発展が不可欠であり、そのための資源開発も欠かせないといった思いがあったのではないでしょうか。

そして、この鉄山ニュースの記事からは、中小坂鉄山のことが大きな話題になっていて、アメリカ帰りの青年の興味をかきたてるほどのものであった、ということも感じ取れます。

今年は、NHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公の夫として、新島襄が登場しますので、新島襄が中小坂鉄山を訪問したという話題は、とてもよいタイミングでの話題のひとつといえます。
こうした話題も織り交ぜながら中小坂鉄山の歴史などを解説できれば、ご見学に訪れていただいた方々も興味をたくさん持ってくれるかもしれません。

 
かくいう私も今年の大河ドラマによって、むかし読んだ「新島襄書簡集」を引っ張り出してきて、再読したのですが、新島襄という人物は、八重さんへのやさしい思いをはじめ、いろいろなひとやものに対するやさしさなどがあり、とてもすばらしい人物であったことを再認識しました。
上の写真は、新島襄から八重さんへの手紙ですが、八重さんが鹿の肉を丸焼けにしてしまったことを、新島襄が「それはしかたないことだ」と慰めているものです。
新島襄のやさしさがよくあらわれている手紙のひとつといってよいでしょう。

きっと八重さんは、アメリカ風の食生活を好む新島襄が求める料理がうまくつくれなかったのでしょうね。

どうぞ、安中の新島襄の父母宅などのご見学とあわせて、下仁田ジオパークのジオサイトのひとつ中小坂鉄山のご見学にお出かけください。

上の写真=鉄山研究会のメンバー
                                    画面右 → 岩井実さん
画面左の石井とし子さんは、鉄山のすぐ近くにお住まいです。鉄山の見学に訪れたときは、気軽に声をかけてください。
とてもよいお話を聞かせていただけると思います。

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