2019年8月12日月曜日

渋川空襲:アメリカ軍の艦上爆撃機13機  


500ポンド爆弾26発投下、
 7.7ミリ旋回銃・20ミリ機関砲による機銃掃射


1945(昭和20)年7月30日、アメリカ軍の空母「ランドルフ」の艦上爆撃機カーチスSB2C・4ヘルダイバー13機が渋川方面に飛来、午前7:25から約1時間にわたって、爆弾投下と機銃掃射を行いました。
撮影:2019.8.11 (赤い丸は、私が画像に付したものです)
上の画像(↑)は、そのときの銃弾痕で、いまも大切に保存されています。
下の画像(↓)は、いまも壁面に銃弾痕がある建物に設置されている説明です。
撮影:2019.8.11
昭和から平成、そして令和へと時代が変わっていくなかで、先の大戦による悲しいできごとは、多くのひとびとの記憶から薄れていっているように感じています。
きのうのブログ(↓)の
なっちゃんとゆみちゃんの花嫁姿
     NHK 連続テレビ小説〝なつぞら〟
は、戦争で家と両親を失った子どもが、それぞれに戦後を生き抜いていく物語ですが、私が申し上げるまでもなく、戦争は多くの悲劇を生みます。
〝なつぞら〟での咲太郎、なつ、千遥の兄妹は、別れ別れになってしまったわけですが、それそれの場所で、幸いにもいい人に出会えて、戦後を生き抜くことができました。
しかし、戦争によって家や両親を失った多くの子どものなかには、浮浪児になって、施設に保護されたり、食べ物がなく餓死した子どももたくさんいたと聞いています。
撮影:2019.8.11 (赤い丸は、私が画像に付したものです)
アメリカ軍による渋川方面への空襲では、
  死者 17名
  重軽傷者 45名
  建物被害 209棟
であったそうです。
しかし、この建物のところにある説明には、
  当時の新聞は軍事施設・工場・一般民家とも被害はほとんどなかった、と伝えている
と記載されています。
撮影:2019.8.11
ことしも8月15日がやってきます。
私の父母は、戦争を体験していますが、戦後生まれの私は、戦争を体験していません。
また、父母から戦争体験に関して多くのことを聞いているわけではありませんが、戦争によって悲しい思いをしたのは、まじめに国のいうことを信じて、
  お国のため
とがんばった国民であったことを考えるとき、いかにむごいことであったかは私にも理解できます。
撮影:2019.8.11
群馬県内では、前橋市への空襲をはじめとして、ここで紹介した渋川市ほかでもアメリカ軍の空襲がありました。
また、先の戦争では、国内外で多くの人々が、戦争で命を落とし、家を失ったりしました。
戦争を体験した世代が消えつつある今日、戦争の悲劇を記憶していくためにも、これからの時代、国内外の各地にある〝戦争遺蹟〟を訪れて、〝戦争遺蹟〟から戦争のことを学んで、いろいろ考えること、これが悲しい歴史を今後も伝承していくことになるのではないか、と私は思います。

 ※ 紹介した建物は、いまは渋川商工会議所になっています。
  1931(昭和6)年に旧有限責任渋川信用組合の建物として建設されたもので、昭和初期に建てられた建築物として、また戦争の歴史を伝えている建物として、渋川市の指定重要文化財になっています。

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