罪なくして此所に斬らる
上野国権田村(現在の高崎市倉渕町)の烏川の河原で、薩長軍によって小栗上野介が斬首されたのは、慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)のことでした。
小栗上野介の偉業については、いまさら申し上げるまでもないことですが、「ウイキペディア」から一部分を引用させていただきます。
安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。
のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎から幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した。(「ウイキペディア」から引用させていただきました)
高崎市倉渕町の東善寺では、薩長軍に斬首され、非業の死を遂げた小栗上野介をしのび、毎年5月下旬の日曜日に「小栗まつり」をおこなっています。
今年は、新型コロナウイルスの感染防止のため、「小栗まつり」を中止されたとのことで、地域の皆さんたちがおまいりをされたと、上毛新聞の記事が伝えています。東善寺の境内にある小栗上野介と栗本鋤雲の胸像です。
薩長軍によって、小栗上野介が斬首された川原に立つ慰霊碑です。
緊急事態宣言が全面解除されたことであり、近いうちにおまいりに出向きたいと思っています。
「麒麟がくる」:歴史は変わる 小栗上野介:歴史を変える |
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