2013年5月5日日曜日

下仁田こんにゃく

こ ん に ゃ く の 碑


群馬県蒟蒻原料商工業協同組合(下仁田町)の敷地内に建てられています。

石碑の裏面の一部です。

この石碑は、組合創立50周年記念として、建てられました。

        こんにゃくの碑 (碑文 (原文は、縦書き))

蒟蒻はテンナンショウ科に属する多年生草本で古くから嗜好食品として万人に親しまれている。中国では蜀で栽培されていた事が中国の古典「文選」に見えるが、原産地は華南か越南北部といわれ、日本には欽明帝の頃、朝鮮を経て医薬として伝わったという。推古帝の頃は中国から輸入されたというが、蒟蒻という文字が文献に見えるのは、平安朝の本草和名に「蒟蒻は新撰食経に出づ一名蒻頭、古爾也久」とあるのが最初である。また、拾遺和歌集に「野を見れば春めきにけり青つづらこにやくままし若菜つむべく」という歌が載っている。これによって見れば平安中期には栽培も行われて食品化されていた事が推定される。わが上州に蒟蒻が栽培されたのは、室町後期今を去る四百六十年前永正二年の春、本郡月形村大日向茂木氏の祖正峯が西国巡遊の際、紀州より持ち帰ってその居村に植えたのが初めという。元来蒟蒻は排水のよい南面傾斜地に適する植物である。この地方の地形傾斜に富みまことに好適の地である事を思えば、西城州のこの地に之を植えた事は賢明といわねばならない。江戸中期には調理法栽培法の書物も出版され、また此の間食品化の工程も改善が進み、江戸末期には常陸国諸沢村の人中島藤右ヱ門の手で精粉化の手法が創始された。明治九年本郡富岡町出身篠原粂吉は、商用の途次茨城県下に於てたまたま精粉化の実情を見聞し大いに感ずる処あり同県の人、斎藤周蔵を伴い帰った。同年秋周蔵は本郡尾沢村の麦つき水車を改造して蒟蒻水車を作り本県に於ける精粉化の先鞭をつけたのである。
明治二十二年下仁田町桜井英範は蒟蒻精粉業が産業として重要である事に着目し茨城県より工人を招き技術を導入し森沢川々口に水車を建て、その企業化に成功し、本県蒟蒻精粉業近代化の基礎を築いた。爾来斯業漸次に興り、南西牧の清流に蒟蒻水車が徐々にその数を増し、秀麗な此の地の独特な風物詩となった。大正五年秋、本組合が創立され、以来組合員一同協力一致して生産の増強につとめ品質の改善と規格の統一を図り、年を追って出荷量は増大し、現在年産額五十数億円に及び資源に乏しい山間農村の経済を潤すにいたった。今や上州蒟蒻は名実ともに全国一の名声を博し、下仁田町はまた全国業界の中心地となっている。組合創立五十周年にあたり、茲にその由来を碑に刻し、先人の努力研鑚の功を讃え、併せて斯業今後の隆盛を祈るものである。

昭和四十年四月十日    撰文併書 福田 薫

       群馬県蒟蒻原料商工業協同組合

 

 
こんにゃくの碑というのは、全国的にたいへん珍しいものではないかと思います。
 
ジオサイトのご見学とあわせて、協同組合の敷地内に建立されているこんにゃくの碑をご見学していただき、こんにゃくに寄せる下仁田の人々の『熱い思い』を感じていただければ幸いです。

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