2014年7月13日日曜日

上信電鉄-車両のラッピング

沿線の名物で
車両をラッピングして
いただけませんか?

上信電鉄では、たくさんのラッピング電車があり、上信電鉄に乗車するとき、

 きょうは、どの電車が来るかな・・・

と、電車がやってくるまで、とてもわくわくします。
私の場合は、ジオパーク下仁田のラッピング電車がお気に入りですが、群馬サファリのゼブラも大好きなデザインです。
ラッピングされていない車両を見ていますと、私は、この車体には、どんな図柄がよいだろうか・・・と思ってしまうのです。
たとえば、甘楽町小幡の武者行列の少年や少女をはじめ、
華やかな武者行列絵巻にしたら・・・とか、
ヘッドマークには、凛々しい若武者像をつけるとか・・・すれば、
とても楽しい武者行列電車になりますし、図柄に甘楽町の楽山園なども入れれば、たいへんよい甘楽町の観光宣伝にもなることでしょう。

南牧村の場合は、滝の里をはじめとして、オアシスなんもくなどでで働く元気なおばちゃんを車両に描いて、
南牧にお出かけください、といったメッセージを加えれば、これもよい観光宣伝になると思います。

土日や祝日には、「なんもく号」として高崎・下仁田駅間を運行し、下仁田駅から南牧村周遊のバスを運行(予約制)して、南牧村を案内して、滝歩きや山登りをはじめ、おいしいものを味わっていただくツアーを企画したらどうでしょうか。

もちろん、下仁田のジオサイトの見学も組み込んでいただいて・・・

このほか、上信電鉄の沿線には、多胡碑をはじめ、上野三碑もあるなど、歴史遺産もたくさんあります。
こうした文化財などをまとめて、一編成の電車にラッピングして、歴史ある沿線をアピールすることもいいかもしれません。

それぞれの文化財を有する市町村が掲載点数、掲載スペースに応じて、掲載料を上信電鉄に支払う方式にすれば、より多くの沿線市町村の参加が期待できるでしょう。

ひとつの町だけで、一編成のラッピングは、ちょっと・・・といったこともあろうと思いますので、こうした相乗り方式もよいと思われます。

文化財や歴史探訪のとき、お腹がすくと思うのですが、沿線のうまいものを集めて、それらのラッピング電車もいかがでしょうか。
下仁田町には、下仁田かつ丼をはじめ、おいしいものがたくさんあります。
富岡市には、むかし懐かしいぶどう焼きもあります。
そして、高崎市吉井町には、ジャンボ餃子も!!!
下仁田かつ丼やぶどう焼き、ジャンボ餃子などのラッピング電車が走っていれば、たいへん楽しいのではないかと思います。

ヘッドマークは、週替わりで、下仁田かつ丼、ぶどう焼き、ジャンボ餃子とか、ラッピングしてあるものを紹介すれば、この地に来られて上信電鉄に乗車された方が、

 先日は、下仁田かつ丼電車に乗ったよ!

と、思い出をあちこちで話していただけるのではないでしょうか。

楽しいラッピング電車が増えるとうれしいとの思いで、この提案をさせていただいたしだいです。

皆さまは、
どのようなラッピング電車があると
うれしいでしょうか・・・

2014年7月11日金曜日

富岡製糸場と絹産業遺産群-荒船風穴

地すべりによる通行止めにご協力を!
  県道下仁田浅科(しもにたあさしな)線

2014.7.8付けの上毛新聞によれば、
 復旧のめどは立っていない
   とのことで、いまも通行止めになっています。
2014.7.8付け 上毛新聞
この県道沿いには、神津牧場もあるため、一刻も早い復旧が望まれるところですが、こと荒船風穴を見学する人々への利便を図るという点では、いささか異なる考えを私は持っています。
撮影:2011.9.16
神津牧場では、牛の飼料などの搬入をはじめ、乳製品などを搬出する必要があり、県道が通行止めになれば、大きな打撃を受けることでしょう。
2014.7.8付け 上毛新聞
一刻も早く通行止めが解除されるよう、関係各位のご努力をお願いしたいところですが、
 この際、荒船風穴見学者については、
  徒歩で荒船風穴と神津牧場に出向いていただくことにしたら・・・
 と、私は考えるのです。

もちろん、下仁田町のおもてなしの心も理解できますし、シャトルワゴンの増便などの対応は、たいへんありがたいことですが、
 荒船風穴は、通行に不便な山のなかにあって、
  かつては、馬の背中や人が担いで、
   荒船風穴に蚕種を運び入れたり、運び出していたことを
  追体験する意味で、
   上の図ののところから荒船風穴まで(シャトルワゴンのルート)歩いていただいたらどうでしょうか。
荒船風穴入口付近から眺めた屋敷地区 撮影:2008.5.28
上の画像の奥のほうから荒船風穴に向かって、登ってくることになります。

私は高校生のとき、上の図の矢印のところ(市野萱(いちのかや)終点)まで、バスに乗って行き、荒船風穴と神津牧場、物見岩などを歩いて、矢印のところに戻り、バスに乗って、下仁田駅まで帰ってきたことがあります。

暑い夏休みの一日でしたが、とてもさわやかな高原の風を満喫し、たいへん楽しかった記憶があります。

足に自信がある方、健脚自慢の方は、
 ぜひ歩いて荒船風穴から神津牧場に出かけてみませんか。

 そんな長い距離を歩いて荒船風穴に行けない、という方につきましては、
 通行止めが解除されるまでお待ちいただくとして・・・

 歩いて荒船風穴から神津牧場に出かけてみませんか。
     の私の提案は、
 狭い迂回ルートを通行されて、事故を起こされないように・・・と、
 事故の発生を心配してのうえでのことと受け取っていただければ幸いです。

夏でも約3℃の冷気が吹き出している風穴で、歩いてきて熱くなったからだを冷やすのも楽しいのでは・・・
撮影:2014.7.2
車で来られるのもいいですが、荒船風穴まで歩いて来られますと、この道を馬や人によって、お蚕の種紙が運ばれたのか・・・と、とても感慨深いものがあると思います。
撮影:2012.7.24
荒船風穴で見学して、涼しくなったあとは、神津牧場へ歩いて行きます。
撮影:2012.7.24
世界遺産登録後、県道を歩く牛の行進は見られませんが、牛のうんちやおしっこのあとを避けながら歩くのも、それはそれで楽しいものでしたが・・・

そして、神津牧場では、ソフトクリームを食べて・・・
撮影:2014.7.2
お帰りになるとき、もう一度荒船風穴で
涼まれるのもいいでしょう。

通行止めのときだけでなく、
車で行けるときでも、
徒歩で荒船風穴と神津牧場へお出かけになりますと、
車では味わえない楽しさがあると、私は思いますが・・・

どうぞ、県道の通行止めに
ご協力をいただきますよう、
よろしくお願い申し上げます。

2014年7月10日木曜日

上毛新聞の記事を読んで

歴史と自然を楽しむ旅

昨日(2014.7.9)の上毛新聞に掲載された記事です。
富岡市長と横須賀市長が会談した折、富岡市長が

 遺産群の周遊に加え、群馬サファリパークや県立自然史博物館、
 下仁田ジオパークといった歴史と自然をテーマとした教育旅行を提案

したと報じられました。
先日、あるテレビ番組を視聴していたところ、旧富岡製糸場に来られた方へのインタビューが放送されたのですが、

 アナウンサー : 世界遺産を見学されて、いかがでしたか?
 女性の方 : ・・・・・(考え込む感じで)
 アナウンサー : どうでしたか?
 女性の方 : 軽井沢に出かけるついでに、どんなものなのかな・・と思って、ちょっと立ち寄っただけなので。

とのことでした。

いまは、このテレビ番組に出られた方のように、私が知る限りでは、旧富岡製糸場をさっと見て、さっと帰ってしまう方が多いようです。

おそらくいまの多くの来訪者、その大部分は、こうした方々であるといえるでしょう。
富岡市内には、とてもすばらしい群馬県立自然史博物館もありますし、
下仁田では、ジオパークの見どころであるジオサイト見学をはじめ、学術的に貴重な地質構造などを学ぶこともできます。

もともと世界遺産登録へ、といった運動が始まったときは、旧富岡製糸場のみであったわけですが、旧富岡製糸場だけでのソロデビューが難しいとなって、他の構成資産とのストーリーをつくり、それによって登録が可能になったといえるでしょう。

これら構成資産の周遊もさることながら、
 旧富岡製糸場がある富岡市を含めたこの地域全体で、
   どのようなストーリーをつくって、
    多くの方々に来ていただいて、長い時間滞留していただけるか、
     それも一過性のものでなく、将来にわたって持続できるか・・・
が、これからの発展に向けて、大きなカギとなるのではないかと思います。

いずれにしましても、富岡市長の提案趣旨-
 富岡市だけでなく、周囲の自治体をはじめ関係自治体と協調して、
 この地域全体の総合力で、魅力ある旅をつくっていきたい
-は、とてもよいことであると、私は考えました。

富岡市長と横須賀市長の対談については、本日付けの上毛新聞の特集に掲載されています。

どうぞ、上毛新聞をお読みください。

2014年7月9日水曜日

養蚕・おかいこ

こどものころの思い出

私がこどものころ、春から秋にかけて、生家はたくさんお蚕を飼っていました。
とくに夏のお蚕は忙しく、お盆(月遅れの8月)前までは、目が回るほどの忙しさでした。

こどもも親と一緒に桑畑に行き、
桑取り(お蚕が小さいときは、桑畑から桑の葉だけを取ってきますが、お蚕が大きくなってきて、桑の葉をたくさん食べるころには、桑の枝ごと切ってきて、その枝のままお蚕に桑を与えます)をさせられ、それを家まで運んだり、
お蚕の成長に応じて、何時間おきに桑くれをする、といったことになっていましたので、その時刻になりますと、夜中でも
桑くれ(お蚕に桑を与えること)をさせられたものでした。

たくさんのお蚕が桑の葉を一斉に食べ始めますと、まるで夕立がしてきたかのような音が聞こえてきます。
私がこどものころは、生家をはじめ、集落内の農家全体が養蚕農家でもありました。

JA甘楽富岡の機関紙7月号(つぎの岩崎正春さんの投稿を参照)

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=657463637674606&set=
pcb.657464291007874&type=1&theater
岩崎 正春さんの投稿の写真

には、養蚕農家が減少してきたようすが掲載されています。

JA甘楽富岡内の養蚕農家は、
  昭和43年  7,709戸   → 1968年
  昭和62年  2,403戸
  平成9年    279戸
  平成25年    20戸   → 2013年

昭和43(1968)年から45年間で、
  7,709戸の養蚕農家が20戸
 になってしまいました。

私の記憶に間違いがなければ、私の生家をはじめ多くの養蚕農家は、繭の価格が低迷していた昭和40年代のはじめには、桑の木を抜き取って、桑畑を普通畑に変えて、主にこんにゃくいもの栽培に転じました。

おそらく、昭和43年の7,709戸が当地における養蚕農家数のピークか、減少が始まったころの数字ではないかと思います。
養蚕農家に育った私の経験(といってもこどものときに手伝わされた程度で、自らが主体的に養蚕に取り組んだわけではありませんが)からいえることは、養蚕は過酷な労働の連続であり、ほかの農作業の比ではないほど苦労が多いものです。

生産した繭が高価な金額で売れるときは、農家は苦労したかいがあった、と喜ぶことができますが、苦労して生産した繭が高い金額で売れない・・・ということが続きますと、これ以上養蚕を続けるわけにはいかないということになって、養蚕農家は急激に減少していったということでしょう。
いまでは、桑畑がしいたけのほだ木置き場になっていたり、荒れたままになっているところを見かけます。

私がこどものころ、いちばんいやであったお蚕の手伝いは、おおあげ(繭をつくるための〝まぶし〟に熟蚕となった蚕を移動させる作業)後の蚕糞(こくそと呼んでいました)片付けでした。

とくに夏のお盆前のこくそ片付けは、暑い天気のさなか、お蚕の糞などが腐敗していく熱もあって、バラック(私の生家では、主に母屋の2階には、回転まぶしを下げるため、お蚕は別棟のバラック(鉄骨造)などで飼育していました)のなかが、サウナ状態になっていて、そこで汗びっしょりになりながらの作業は、たいへんつらいものがありました。

また、お蚕の糞などのにおいは、お風呂に入って、ていねいに頭髪、からだを洗っても「くさいな・・・」と自分でも思うほど強烈なものでした。
いまでもお蚕を見ますと、おおあげのときなどにさわったお蚕の感触、こくそ片付けのときの暑さとにおいを思い出します。

いま、養蚕農家が減ってしまいましたが、かつては一家総出でお蚕を飼って、多くの養蚕農家が一生懸命に生きていた時代があった、というたわいない私の思い出でした。

 【これまでの養蚕関連のブログ記事】

http://geogunma.blogspot.jp/2013/06/blog-post_24.html
ジオサイト-荒船風穴 養蚕の神々
http://geogunma.blogspot.jp/2013/07/blog-post_4.html
上信電鉄 初めて列車が走ったころトンネルがふたつあった!?
http://geogunma.blogspot.jp/2013/06/blog-post_28.html
繭と生糸は日本一 下仁田社
http://geogunma.blogspot.jp/2013/06/blog-post_27.html
上毛かるた 繭と生糸は日本一

そして、いまはお蚕様は、こんなかたちで私たちを楽しませてくれています。
新聞やテレビなどでご覧になったり、すでに「食べたよ!」という方も多いかと思います。
この画像は、
http://blog.goo.ne.jp/gunma-daisuki/e/09744f37e8780197aed6929da65da3dc
ぐんま大好き! 群馬のちょっとイイものや身近な自然を再発見
からお借りしました。

販売先は、こちら
http://yurugido.com/
丸エイ食品
になります。

こちらは、おかいこクレープです。
この画像は、
http://blog.goo.ne.jp/atorie-season/e/4259279d8d83fa3c89e9f0fdbe738984
富岡市の新名所 平成純喫茶アトリエ
からお借りしました。

時代とともにお蚕の役割が変化する・・・ということかもしれません。
夏になると思い出すお蚕のこととあわせて、最近のおもしろい話題を紹介させていただきました。

2014年7月5日土曜日

ひまわり畑-丹生(にゅう)湖畔・富岡市

今年も丹生湖畔の丘は
    ひまわりがいっぱいに

富岡市下丹生の丹生湖畔では、ことしもたくさんのひまわりが見られることでしょう。
今年のリーフレットです。
とてもすてきなデザインで、矢印の先には・・・
カーナビに設定する住所(所在地)の案内、
Web検索の情報も記載されています。

いろいろな観光地で、さまざまなパンフレット、リーフレットが配布されていますが、必要な情報が掲載されていなかったり、くどくど書いてあって、知りたいことの肝心な部分がどこやら・・・といったものを見かけることがあります。

そこへいくと、このリーフレットには、カーナビを利用されている方々への情報提供、Webでの検索を容易にさせる心づかいがあって、とてもよいリーフレットだと思います。

どのような情報を提供したら、より多くの方々にお出かけいただけるか、を考えて、必要な情報を発信していくことは、とても大切なことではないかと思います。

このリーフレットは、使用されている写真をはじめ、デザイン全体も整っていて、とてもよいリーフレットではないかと思います。

それぞれのところで、今後作成するリーフレット、パンフレットに掲載する項目、内容として、カーナビに設定する住所(所在地)の案内、Web検索の情報は、大いに参考にしてほしいものだと思いました。
撮影:2013.8.4
丹生湖畔のひまわり畑は、7月下旬から見ごろになるとのことです。
撮影:2013.8.4
今年の夏、丹生湖畔の
ひまわり畑にお出かけください。

2014年7月2日水曜日

富岡製糸場と絹産業遺産群-上毛新聞記事

下仁田自然学校の活動荒船風穴

2014.6.30付けの上毛新聞は、世界遺産登録に関する特集記事が満載(別冊もありました)で、その特集のなかに、関係する伊勢崎市・藤岡市・富岡市・下仁田町の市長・町長の対談記事がありました。
全文は、上毛新聞でお読みいただくとして・・・

下仁田町長の発言のなか(赤い矢印の先)で、下仁田自然学校の活動が紹介されていました。

この記事を読ませていただき、下仁田自然学校に関係するひとりとして、たいへんうれしく思いました。

現在の下仁田自然学校の活動をはじめ、各地学研究団体や先人のたゆまぬ研究成果の積み重ねが、下仁田町を群馬県第1号の日本ジオパーク認定に導いたといってよいと思いますが、私にとって、この記事の内容は、さまざまな分野での研究の積み重ねが、つねに必要なことであることを改めて認識した記事でもありました。

ところで、きのうは7月1日ということで、いよいよ暑くなってくるな・・・と思い、避暑地として有名な軽井沢に行ってきました。
  (この認識と行動に関連性があるのか?といわれますと、はて・・・となってしまいますが)
この画像は、軽井沢のおみやげもの屋の店先です。
「軽井沢のおみやげなら・・・」という表示がありますので、『ああ・・ここは軽井沢か』とお気づきになると思います。
この表示がなければ、「これは富岡のおみやげもの屋?」と思われてしまうかもしれませんが、軽井沢で富岡製糸場の絵や文字が印刷されたお菓子類が販売されていました。
軽井沢に行かれたことがある方は、変則交差点のところにあるおみやげもの屋として、ご存知のおみやげもの屋だと思います。
この夏、軽井沢にお出かけになった折には、軽井沢に富岡製糸場のおみやげがあることをご覧になってみてください。

ところで、いま私は、「富岡製糸場のおみやげ」と記述しましたが、ほかの構成資産(荒船風穴・田島弥平旧宅・高山社跡)に関するおみやげは、ここにはまったく置いてありませんでした。
もともと富岡製糸場を世界遺産に、ということで始まったことであり、その後に富岡製糸場だけでは、世界遺産への推進力が弱いということになり、〝世界遺産としてのストーリーづくり〟として、ほかに何かないか・・・ということで、各市町村にリストをあげさせたもので、その最初のころには、まさに雑多なものが加わっていたというのが、実態であったといってよいでしょう。

これではまずいということで、富岡製糸場との関係が証明できるものが何かないか、ということで文献調査等を実施し、ちょっとでも関係があったと思われる資料があった資産を選んだのが、荒船風穴ほか2件の3件でした。

まさに、富岡製糸場と絹産業遺産群という名称そのものであり、〝富岡製糸場+その他3件〟といったイメージが定着してしまったためか、どうしても世間の関心、多くのマスコミ等の関心は、富岡製糸場に向いてしまうということなのでしょう。

これも世界遺産に向かって、資料づくりが行われてきた歴史等をみれば、やむを得ないことであるかもしれません。

いま、富岡製糸場には、世界遺産登録決定後、多くの見学者が押し寄せて、ガイドの手配ができないとか、観光会社からガイドをつけてくれないかといった要望(苦情?)があったという新聞記事がありましたが、ほかの構成資産のところでは、見学者は増えたとはいうのの、そのような大混雑は世界遺産登録後になかったとのことでした。

一時的かもしれない多くの見学者にもみくちゃにされて、一時的に苦労して、多額の経費を投じ、あとには何も得るものが残らないという世界遺産になるよりは、富岡製糸場以外の構成資産は、じわじわと浸透させていくような方法で、継続的に観光と文化財保護を両立できる方法で、しっかりした運営をしていくべきかもしれません。

2014.6.30付けの上毛新聞、そのなかの対談記事を読ませていただいて、私が思ったことをうまく表現できませんが、いま記述したようなことを考えました。

2014年7月1日火曜日

上毛新聞-視点 オピニオン21

2014.6.22に掲載していただきました

昨年から掲載していただいている「視点 オピニオン21」については、今回の掲載が5回目になりました。

今回の「知恵と熱意 先人に学び地域 豊かに」では、
 
下仁田こんにゃく → 蒟蒻平八と呼ばれた茂木平八氏
下仁田ねぎ → 戦後の品種改良の中心的人物である松浦源一郎氏

を例にさせていただいて、
 
先人の知恵と熱意をよく学んだうえで、新しい視点と柔らかな発想力で、地域にある自然や伝統文化などを見直せば、これからの時代を切り開くヒントをはじめ、地方で心豊かに暮らせる道筋が、きっと見つかると私は考えています。

と結ばせていただきました。

以下は、上毛新聞に掲載していただいた全文です。
上毛新聞のHP
http://www.jomo-news.co.jp/ns/series/4314035074836951/opinion_detail.html
  にも掲載されています。

知恵と熱意 先人に学び地域 豊かに
下仁田自然学校運営委員 本多優二


  今、南牧村をはじめ、多くの市町村が急激な人口減少と少子高齢化に直面するなど、たいへん困難な状況に向かっているように感じられます。ですが、困難な状況に陥ったことは、昔もたくさんありました。その困難な状況を、先人は知恵と熱意で、常に克服し、それぞれの時代を築いてきました。

 たとえば、いまや全国的に有名な下仁田ネギと下仁田こんにゃくですが、これも先人のたゆまぬ努力のたまものであり、多くの人々が築き上げてきた結果なのです。

 下仁田ネギの場合、先の大戦前後に、品質が大きく低下するという危機に直面しました。これを戦後の混乱期に、松浦源一郎氏(下仁田町馬山)らが品種改良に取り組み、下仁田ネギを復活させるとともに、さらによい下仁田ネギをつくりました。

 また、明治期には南牧村と下仁田町で、こんにゃく栽培が盛んになりますが、これは「蒟蒻(こんにゃく)平八」と呼ばれた茂木平八氏の熱意によるものでした。

 『北甘楽郡史』(本多亀三著)は「月形村大字大日向に茂木平八という老農あり。蒟蒻栽培の利あることを家ごとに説き、人ごとに諭し、敢(あ)へて餘事(よじ)を語らざりし故、人之を綽號(しゃくごう)して蒟蒻平八といひき。(略)同地方の人々も、大いにその利あるを知り、南西牧(なんさいもく)は勿論(もちろん)、本邦到る所競うて之を栽培し、以(も)つて今日の盛況を呈するに至れるなり」と、茂木氏の活躍を述べています。

 明治期に茂木氏が、こんにゃく栽培を盛んにしたからこそ、水車を利用しての精粉工場や食品加工の工場も盛んになり、南牧村や下仁田町が繁栄する大きな礎がつくられることになりました。

 戦後の混乱期に下仁田ネギを復活、改良した松浦氏、明治20年代に蒟蒻平八と呼ばれるほど熱心にこんにゃく栽培を広めた茂木氏が生きた時代は、それぞれ第2次世界大戦、日清戦争があり、激動と混乱の厳しい時代でした。

 厳しい時代のなかで、豊かな地域づくりをめざして特産物をつくり、あるいは特産物を守り、改良することによって、困難な状況を打ち破った先人の知恵と熱意を学び、今こそ、私たちが未来のために、何ができるかをよく考えてみるべきではないでしょうか。

 厳しい時代状況であればこそ、先人の知恵と熱意をよく学んだうえで、新しい視点と柔らかな発想力で、地域にある自然や伝統文化などを見直せば、これからの時代を切り開くヒントをはじめ、地方で心豊かに暮らせる道筋が、きっと見つかると私は考えています。
 
     
松浦源一郎氏に関しては、下仁田自然学校のくりっぺ第70号に書かせていただいたり、
私のブログ
  http://geogunma.blogspot.jp/2013/05/blog-post_3.html
   下仁田ねぎ     ね ぎ の 苗
で紹介させていただいていますが、

茂木平八氏については、これまでに紹介していませんでしたので、「北甘楽郡史」に記載されている関係部分全体を引用(新聞では、紙面の都合で、全文は掲載できませんでした)して、茂木平八氏が生きた時代をお考えいただきたいと思います。
昭和4年発行(復刻版) 本多亀三著
                  
第八節 蒟蒻栽培    (北甘楽郡史 198199頁)

今より凡そ四百餘年前大日向村の茂木平兵衛といふ人の祖先、和惣兵衛尉正峯といへる人、或る時西国を巡遊して紀州に至りける時、或る村落にて、蒟蒻の良品を見、その數塊を請ひ得てかへり、之を畑地に植付けたり。

是れ永正二年乙丑(紀元二一六五)の春にして、後柏原帝の御代なり。それより同地方に傳わり、各家皆之を菜箸するに至りたれども、元より自家の食料とするのみなりき。

然るに、明治二十二三年頃より、俄かにこの物の價昂騰し、蒟蒻三駄は、米二駄に相當すといふ珍しき價格出でたり。

時に、月形村大字大日向に茂木平八という老農あり。

蒟蒻栽培の利あることを家ごとに説き、人ごとに諭し、敢へて餘事を語らざりし故、人之を綽號して蒟蒻平八といひき。

この平八氏、幼名を甲斐助といひ、天保八年正月十五日、月形村大字大日向に生る。

性謹直にして剛毅、尤も事の利害を察知する明ありき。

されば、茶の栽培を諸人に勸め、秋蠶の飼育を唱導し、以つて村の利潤を計りしなり。

その蒟蒻を作り始めたるは、明治二十六年にして、先づ初年には僅かに三畝歩の地を之に充て、それより穫たる蒟蒻を種として貯藏し、翌年春に至り、地積を二倍にして之を植付け、秋期に至りて之を掘採り、貯へて第三年の種薯とし、斯くして五ヶ年の後に至りて計算せしに、蒟蒻百二十駄(生玉十六貫二俵を一駄とす)を實収したり。

ここに於いて、同地方の人々も、大いにその利あるを知り、南西牧は勿論、本邦到る所競うて之を栽培し、以つて今日の盛況を呈するに至れるなり。

翁、性慈善を好み、或は落魄せる舊友を見ては之を慰藉し、或は公共のために金品を寄附し、或は村民に率先して貯蓄會を設くる等、その美舉頗る多し。

されば明治四十一年七月北甘楽郡農會より、同年十二月大日本農會より、何れも表彰せられたり。(甘楽産業叢談)
綽號→しゃくごう(他人がつけた呼び名の意味)

もし・・・という仮定で考えるとき、この時代に蒟蒻平八と呼ばれるほど熱心にこんにゃくいもの栽培を勧める人物が南牧村にいなかったとしたら、その後の南牧村や下仁田町での盛んなこんにゃくいも栽培が生まれたかどうか、おそらく生まれなかったのではないだろうか・・・と、私は思うのです。

わが国が明治という時代になって、人々が江戸時代の領民から国家の民、国民になったわけですが、兵役と租税負担という国民としての義務(江戸時代の農民には、兵役義務はなく、戦があれば武士が担当すること、という時代からの大きな転換があったのが明治でした)が課される厳しい時代 -わが国が日清戦争に向かっていたときで、国民は兵役と重税、その厳しさにあえいえでいました-にあって、

懸命に生き抜いてきた先人のひとりが蒟蒻平八氏であり、
地域の特性を生かして、豊かな暮らしを築きあげるには、どうしたらよいかを真剣に考え、
その思考から得られた結論を実践した人物、
それが蒟蒻平八と呼ばれた茂木平八氏でした。

こんにゃくいも・ねぎを
 下仁田こんにゃく・下仁田ねぎ  という一大ブランドにして、

これを広く世の中に知らしめた先人の努力があってこそ、これまでの南牧村や下仁田町の発展のもと、そのひとつがあったということを私たちはよく学んだうえで、これからの時代にとって必要なこと、必要なものは何かを私たちが考えていく、いまはそういう時代になってきていると、私は考えています。

※ 茂木平八氏の「秋蚕飼育の唱導」に関しては、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の解説のまちがいのひとつとして、別の機会に述べさせていただこうと考えています。