2019年2月13日水曜日

繭・製糸・風穴

大正時代の広告

明治・大正・昭和にかけて、主に群馬県西部で稼行していた鉱山を調べていますが、その作業の過程で見つけた本のなかに、たくさんの広告が掲載されている本がありました。
原富岡製絲所は、旧官営富岡製糸場であった工場ですが、三井に払い下げられたあと、原が経営していたものです。
私がこどものころには、片倉工業富岡工場となっていたのですが、お年寄りのなかには、〝原製絲〟と呼んでいる方もいたと記憶しています。
右隣りの源氏とあるのは、いまも富岡市内にある料亭です。
製糸のほか蚕種製造の広告も多く掲載されています。
また、製糸から出てくる蛹(さなぎ)を原料にした肥料でしょうか、蛹肥料という商品らしきものもあります。
右の志のやは、砥石を扱っている店で、この店の経営者である篠原粂吉は、南牧村砥沢の砥石山を経営したり、下仁田町中小坂の砥石山を経営していた方だと思います。
篠原粂吉といえば、茨城県からこんにゃくの乾燥・精粉技術を南牧村に伝えるため、同地の斎藤周蔵という技術者を招いた人物としても有名です。
これらの広告が掲載されているのは、「北甘楽郷土誌」という本で、国立国会図書館デジタルコレクションで見つけました。
 大正6年ということですので、1917年の発行になる本です。
いまから100年前の時代、とても製糸が盛んであったことがわかる広告が、この本には多く掲載されていますが、さらに続けて見ていきましょう。
下仁田社は甘楽社と碓氷社とともに、とてもすばらしい生糸を紡ぎだし、明治のころに輸出されていった生糸のうち、この3社の生糸が占める割合は、実に大きなものでした。
この当時の下仁田町には、たいへん好調な輸出企業があったということがいえるかもしれません。
大正から昭和にかけて、電気を使用した冷蔵技術が普及し、自然の冷気を使用して蚕種を保管する風穴は、すこしずつ営業規模を縮小せざるを得なくなります。
大正6年ころといえば、風穴への蚕種貯蔵依頼が減少してきたころ・・・であったと記憶しています。
この本が発行されたころ、それでも甘楽地方では、蚕種や生糸で儲けた商人が、夜になるとまちへ繰り出し、花月といった料理屋などで、大宴会を繰り広げていたことでしょう。
ここで紹介した広告以外に、たくさんの広告が掲載されているのですが、華やかな時代、好景気であった時代を思わせる広告の数々は、この郷土誌の本文よりもおもしろく、また興味深いものがあり、目下のところ広告ばかりを眺めています。

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